<書評>『教育術』
『教育術Eeziehungskunst Methodisch-Didaktiscehs』 ルドルフ・シュタイナー Rudolf Steiner 著 坂野雄二・落合幸子訳 1989年 みすず書房 原著は1939年発行
神智学(人智学)のルドルフ・シュタイナーによる、副題にあるとおり、「1919年8月21日から9月5日にかけて、シュトゥットガルトにおいて開催された14日間の講演集」の速記録をまとめたもの。
シュタイナー教育の実相が理解できる書籍である。例えばFishのFを教えるのに、最初にFを魚の形に描いて、そこからFishを連想させる。数学の足し算では、一枚の紙を24の不揃いなコマに切り分け、それをさらに不均等に4等分する。例えば、それが9枚、5枚、3枚、6枚になったとすると、それぞれを足したものが23になるということを教える。つまり、足し算の教え方が、通常の9+5+3+6=23というのではなく、最初に全体を表示し、それを分けた後に足し算をさせる。引き算も、23から3枚を引いた20枚を示し、何枚足りないかを計算させる。通常の教え方とは正反対だが、最初に全体や総合ということを教えるので、子供には理解しやすそうだ。
ちなみに、私が子供の頃、学校の先生の教え方にずっと不満があった。それは、最初に全体像や目的を示さずに、いきなり個別の細かい作業を、なんの説明もなしに強制的にやらせるからだった。その全体のイメージと目標とするものが見えない中で、よくわからない個別の作業を強制的にさせられるのは、私にとってとても苦痛だった。シュタイナーのように、最初に全体像と目的を示してくれたら、この個別の作業の意味が見えてくるので、よりいっそう理解しやすく、また作業に集中できたと思う。これが、典型的な日本の教育方法の欠点だろう。(ちなみに、私の両親は昔の人だったので、何も教えずに急に「やれ!」と命令し、それができないと「なんで親がやっているのを見ていないんだ!」、「なんで親がやっているのを見ているのに、できないんだ!」と理不尽に叱責する教育法だった。もっと言えば、私が頑張った時は決して褒めずに無視する一方、なにか悪かったときは人格を攻撃するような叱責をした。その理由は「褒めると天狗になるから」だった。)
これは社会人になってからも同様で、全体像や目標を提示せずに、「これをこうやって」と個別の作業を指示されて、私がやった結果が指示した人のイメージと異なると、「何を考えているんだ!」と叱責されることが度々あった。普通に考えれば、指示した人が脳内で何を考えているかを、まったくの他人である私が正しくイメージできるわけはないが、そうした不可能事であることが、私に指示した人にとっては大きな不快であり、そのストレスを私に向けただけだったのだ。さらに、私に指示した人の能力の限界から、自分が目標とするイメージを自分で言語化することができないこともあったのだろう。そうした能力と想像力の乏しさを原因として、目標とするイメージを示さないで作業をさせることの理不尽さが、全く理解できなかったのだと思う。哀しいことだ。
ところで、本書の紹介につながると思うので、私の感性(あるいは、思考、哲学、求めているもの)に反応した部分を以下に引用してみる。
P.69
名詞とは、ある意味では空間の中にある物に対応した名前です。生活の中でそうした物と出会うことは、私たち自身の人生にとって意味がないことではありません。名詞によって表現されている物はすべて、人間としての独立性を目覚めさせてくれます。名詞を使って物を命名することを学ぶことで、まわりの世界から自分を区別しています。ある物を机と呼んだり、椅子と呼ぶことで、自分自身を机や椅子から切り離しているのです。
P.127―128
ゲーテは、素朴な仕方で、自然界の全ての部分から人間ができあがっているという考え方をしていました。・・・ゲーテは、「人間は自然界の頂上に位置し、そこでは自らが完全な自然であると感じる」ということを繰り返し言っています。また、「すべての世界が人間の中で意識化されるのだ」とも言っています。・・・ゲーテは常に人間を自然との関わりの中でみつめ、人間としての自分が自然とともにあることを感じていました。・・・ゲーテは、人間全体がいつも全自然の中に埋めこまれていることを望んでいました。
最初に引用した名詞についての説明は、メルロポンティが『眼と精神』で言及している、人が言葉を創造する過程の分析に、かなり近いものを感じる。そして、名詞とは人が自然との関係―哲学的な意味での「関係」―を構築するための、手段であることが良くわかる。
次のゲーテからの多くの引用は、シュタイナーがゲーテ研究を出発点として神智学を発展させたことに関連している。シュタイナーにとっては、ゲーテが神智学の偉大な先達であったのだ。そして、ゲーテは自己と自然との関係を重視し、自分は自然の中で生かされていることを自覚していたことがわかる。これはそのまま、禅でいうところの「大悟」と同じものである。
つまり、ゲーテは大悟していたのだ。人と自然が一体化したという認識を獲得していたのだ。そうした事実を起点として、ゲーテは『ファウスト』のような偉大な作品を残した一方、錬金術や魔術にも精通する哲学者でもあった。ゲーテを単なるドイツ文学の文豪とだけみなしているのであれば、それは片手落ちと言わざるを得ない。
最後にないものねだりを。もし私が、シュタイナーやゲーテのような偉人に師事することができたなら、どんなに幸せだったことだろう。また、もし私の魂が、次の世で繰り返し人の子として生まれるのであれば、シュタイナーやゲーテのような偉大な教師を探し求めたいと切に願っている。優れた師は宝だが、無能な師は障害でしかない。