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午前11時。目が覚める。二度寝する。 午後0時。仕方なく起きる。一度欠伸をし、シーツを全て剥がす。洗濯機にぶち込んで少し多めに柔軟剤を入れる。 午後0時半。ご飯。作り置きのオクラのショウガ漬けにチャーシュー。 午後1時。クッションを全て干す。洗濯機からシーツを取り出し、布団と一緒に干す。 掃除を開始する。各排水にパイプユニッシュを流す。コンロ周り、洗面所、風呂場、床、トイレ、いつもより気合いを入れて掃除をする。真っ白なスニーカーを洗う。 午後2時。風呂場に干しっぱな
君の最後になりたいんだ。 オスカー・ワイルドを知っているだろうか。 1800~1900年頃に生きていた作家だ。代表作は「サロメ」、「幸福の王子」など。 耽美で退廃的、何とも言い難い文章を書く19世紀の作家。彼の詩を何度か読んだ事があるが、今の言葉で言うエモさが詰まった感じの文章だ。いや、若者向けの青くさいエモさじゃなくて、こう、胸がギュンっとさせられるような大人向けの。 人生の苦しさや悲しみ、辛さや喜び、希望絶望も全て混ぜこんで炊き上げたご飯みたいな文章である。ふりかけ
教えて欲しい事があった。 悲しい事や苦しい気持ち、向き合えないほどの虚無感と脱力、死んでしまいたいと願った日の先に、一体何があるのか。 真っ暗な暗闇の先に、明かりは差し込むのだろうか。 足元だけ照らされた道は、本当に道の形をしているのか。 この気持ち全てを捨てた先に、未来は存在するのか。 誰かに教えて欲しかった。 子供の頃、思い出の中に生きているのはヴェルヌの海底二万里だ。もっとも、それを読んだのは大人になってからであるが、言葉だけはずっと知っていた。 本を読む
足跡を残す 初めて見た最後の夢物語は小さな子供の頃。 日曜の昼間、PS2をつけ私と兄の邪魔を気にせず父が始めたその物語の中で、女の子たちが暴れまわっていた。楽しそうに、自由を謳歌していた。 美麗な映像は一瞬にして私の目を奪った。次に目を奪われたのは分厚い攻略本。辞書くらいのサイズだったそれを、父の手から奪い捲り続けた。 一枚開く度に夢が広がって、私は夢中になったのだ。 小さな子供の頃に見たそれは、確実に、私の人生を変えてしまった。 最後の夢物語ってなんて素晴らしいタ
神様、どうも。 白色が好きです。身にまとう色も、必然的に白が多い気がする。勿論、ラベンダーとエメラルドグリーン、ワインレッドにロイヤルブルー、目の冴えるような昼下がりの空も好きだ。 マジックアワーに溶けていく色味も、朝焼けが輝く海、紺碧に輝く夜、外から見た地球も、全部、全部美しい。 でも何だかんだ、最後に落ち着くのは白だ。 白の不思議な所が、何色にもなれるくせに絶対的な高潔さを持つ所。灰色になり、淀み、黒くなるのに、真っ白な鮮やかさは記憶から消えない事。 だから、白
空の向こう側で会えたらいいねと、今会えるくせに会えないと思い込むのは意気地なしなだけだ 天の川を見た事がない。そもそも天の川は天に跨る川状の星雲だ。 Milky Way 英語圏では川を乳と見立ててるらしい。ふむ、ギリシャ神話にありがちな話である。最も、日本語の天の川も三途の川みたいに渡りで取っているのだろうけど。 古来から豊かな水源を有している日本列島には、各地に川が存在する。多分皆も沢山見てきただろう。川、川、川、川がなければ海、海がなければ湖。みたいな感じで。 川の
生まれ変わったら主人公になりたかったなあ。 と、思っているのは一体いつからだろう。少なくとも小学校低学年の時からずっと思っている。誰からも愛される主人公、困難を切り開く主人公、最後には必ず幸せになる主人公。 子供の頃の私は世界の中心になりたかった。 今思えば何と強欲な事だろうか。この世の中心などになれるような存在でもなく、そもそも地球の中心はマントルだ。コアですコア。なんて、現実味のある答えしか出せなくなっている。 恐らくあの頃の私は、世界の中心というよりか、誰かの世
料理が好きだ。 正確には、料理というより何かを生み出す行為が好きだ。 無の状態から一を作り出す。目の前に並んだ食材を見て、レシピなど見ずに新しい物を作り出すのが好きだ。だからこそ、文章を選んだのだろうけれど。 真っ白なキャンバスに美を見出すと、学校では色を塗らないキャンバスなんて言語道断だからせめて白を塗れと言われた。分かってないな、この白だから良いというのに。絵の具を塗ってしまえば質感や影、粗さなど全て意味がなくなるだろうに。 そんな感じで、昔から新しい何かを作り出