浮上して欲しいと願った人生は、深海のように暗く先が見えない
教えて欲しい事があった。
悲しい事や苦しい気持ち、向き合えないほどの虚無感と脱力、死んでしまいたいと願った日の先に、一体何があるのか。
真っ暗な暗闇の先に、明かりは差し込むのだろうか。
足元だけ照らされた道は、本当に道の形をしているのか。
この気持ち全てを捨てた先に、未来は存在するのか。
誰かに教えて欲しかった。
子供の頃、思い出の中に生きているのはヴェルヌの海底二万里だ。もっとも、それを読んだのは大人になってからであるが、言葉だけはずっと知っていた。
本を読むのが好きな父の血は間違いなく祖父から受け継がれている。祖父は昔から、時間が空くと読書をしていた。定年退職した後は朝と夕方約一時間ほど近所の滝まで散歩し、残りの時間は本を読んでいるらしい。
私の本の根強いファンは、母と祖父だろう。
365日の恋物語が初めて家にやってきた時、母は誰よりも早く物語を読んだ。ここが良かった、ここをもう少し書いて欲しかったと数時間後には感想を言ってきた。文句ではないが、彼女がいつももう少し書いて欲しいと言った場所は書いたけどカットされた所ばかりである。文句じゃないです。
祖父が初めて私の作品を読んだと電話口で聞いた日の事をよく憶えている。声だけでも分かるくらい弾んでいて、私は初めて彼があんなにも嬉しそうにしているのを見た。
ここが良かった、綺麗だった、素晴らしい才能だと。誰からも言われない言葉を彼から注がれた。私は不意に、泣きそうになった。
良い所も綺麗だった文章も、多くの人が言ってくれた。幸せな言葉で囲まれた中、時折厳しい意見が私の心を突いてきた。それでも、才能に対して声を届けてくれるような身内はいなかった。
祖父母は遠くにいるからか、普段の私を知らないからか、初めての女の子だったからなのか、それはもうよく褒めてくれる。普段から褒められなれていない私は、昔から彼らの褒め言葉を聞く度に泣きそうになった。
ああ、大丈夫だ。ここにいていいみたいだと、みすぼらしい心に温かな雨を降らせてくれた。会わなくなって何年も経った。最後はいつだっけと思い出せないほど。これには色々あるけれど、単純にタイミングがない。
話を戻そう。
祖父は、昔ながらの人であまり人を褒めるシーンを見かけない。私が孫だから甘いと言うのもあるが、それでも、人を褒めているシーンは思い返しても数えられるくらいかもしれない。ちなみに、父は全然褒めない。そっくりである。
そんな祖父が、本を読み続けた祖父が、私の何十倍も生きている彼が、孫の私が書いた小説という事を抜きにして、私の作品を褒めてくれた。
こんな嬉しい事ある?沢山の名作を読んできた彼の口から、この物語の素晴らしさを語られる事なんて、小説家冥利に尽きるだろう。
そして何より、祖父の暇になった時間を数刻でも、私の作品が埋めてくれる事が。
嬉しくてたまらなかった。
死ぬ前に絶対会いに行かねばと、思い続けている。あんなにも幸せをくれたから、たった一言で、私の心を救ってくれたから。
そんな感じで読書家の祖父とその血を継いだ父、そしてその父にそっくりな私は子供の頃から多くの物語に囲まれていた。小説というよりかは、漫画などの物語が多かっただろう。その全ては父のコレクションから生まれていた。
実家にある小さな書庫には父が集めた漫画と本が、足の踏み場もないほど連なっている。
海底二万里の話をしよう。
最初にその言葉を聞いたのは父の口からだ。
彼が小学生の頃読んでいたそれは、深海を探検する物語だと話していた。ディズニーの海底二万マイルの列に並んでいた時だっただろうか。私はスピード狂なのでジェットコースターを何回も乗りたかった。
その時はそこまで興味が湧かなかった。実際にアトラクションに乗っても、彼は興奮していたが私にはその良さが分からなかった。
深海を探検して何になる。失われた大陸を見つけてどうする。そこには誰も生きていないのに。
けれど大人になった私には、彼があの時興奮していた理由が手に取るように分かる。
深海を探検して未知の物を探せ、失われた大陸に残された歴史を知れ、人々の、足跡を刻み込め。
あの頃一ミリも分からなかったそれはロマンとなって私の前に再び現れた。歴史が好きになったのも多分祖父から受け継がれた遺伝子だろう。笑える話だが、私の根本的な嗜好は完全に祖父母の遺伝子である。
もう笑っちゃうけど、祖母と食事に行けば決めてもないのに必ず同じメニューを頼むし、歴史小説(祖父と父は日本史だが)が好きなのも完全に血、ついでにすぐお腹壊すのは祖母の血。間違いない。後私が好きなのは西洋史。
今と違ってゲームもない当時、本が一番の娯楽と言っても過言ではなかったあの頃、父以外にヴェルヌを読んでいた子供たちはどのくらいいたのだろうか。少なさそう……。そこでヴェルヌを選ぶ選択に至らなさそう……。
けれど、彼はあの頃、間違いなく冒険譚に心を躍らせたのだ。
深海を突き進むノーチラス号に憧れを抱き、数十年の時を超えディズニーで当時の小さな憧れを叶えたといえる。
私にとっての海底二万里は、空虚と独白、孤独と悲しみの物語だ。
あの物語を読むと、舌先がざらつく。小さな砂糖の塊が弾けてまとわりつくような、それをソーダで飲み込み、喉奥が痛くなるような、そんな物語だ。
あ、これはちなみに共感覚。
ネモ船長は今でこそ様々な媒体でヒーローのように描かれているが、彼は酷く悲しい人だった。憎しみを抱き、暗い深海へ潜りいつか復讐を為すまで恨みを溜め置くようなタイプである。かなり陰キャ寄りだ。
真っ暗な闇をわずかな光で進むノーチラス号。ノーチラスという言葉だけが独り歩きし続けているが、私はこのノーチラス号こそ人なのではないだろうかと思ったのだ。
真っ暗な深海が、先の見えない人生に思えた。当時の私は人生の選択に迷い続けていた。完全に踏み切るには生きるためのお金が足りず、だからといって理想を捨て置く事も出来なかった。そうすると、自分が何をしたいのか分からなくなった。
夢って何だろう。全ての人が持たなければならないのか。何もしたくないは駄目なのか。足を止めたって誰かに迷惑をかけるわけではないのに、どうして止まってはならないのだ。
理想を見つけるための時間は、どうして与えられないのだろうか。いや、理想を探すためのお金は、どうして平等に降ってこないのだろう。海外に行けば何か見つかると言ってお金を貯め見知らぬ土地に行った人たちは、そもそも行くために努力する所で叶っている。
まあ、海外好きだけど。
持っていたはずの夢が語る由も与えられない事に気づいた。声を大にしても、お前なんかがと指を差され苦しめられる事に気づいた。生きるためにお金を稼ぐ、でも好きで生きているわけではない。
うまれたから。いきているだけ。
ずっとやりたかった事が曖昧になり始めた時、ふと、ヴェルヌを思い出した。そして海底二万里を手に取り、パラパラと流し読みする。和訳されているというのに、言葉一つ一つが美しくて悲しくてたまらなかった。
割れた水晶のような鋭さを持つ悲しみと、顔にまとわりつく海水、息を、失いそうになった。
その時思いつく。
あ、人生って深海みたいだ。
先は見えなくていつでも真っ暗、直進以外の操作は出来ず浮上するためには酷い負荷がかかる。先を照らすのは先端についた小さなランプだけ。円形の丸窓からすれ違うのは見た事のない生物、それは脅威だった。
時折ダイオウイカ級の脅威が現れ潜水艦を痛めつける。それでも壊れるわけにはいかず、壊れても進むしかない。
人生みたいだったのだ。
潜水艦の中で行き交う乗組員は様々な考えを持っていて、それはまるで脳内会議。希望を信じる者もいれば絶望に飲まれた者もいる。浮上するには、まだ早い。
潜水艦が深海から浮上する瞬間が、まるで夜明けのように見えたのだ。海面から顔を出し、空を見る瞬間は。
ようやく心が救われた瞬間だった。
そう思いながら書き始めた物語は、祖父も母も非常に気に入っている。ちなみに私も、自分が書いた作品の中で一番、さよならノーチラスが好きだ。
だってあれは恋愛小説じゃない。
人生がどれだけ理不尽で、どれだけ無気力で、どれだけ叶わないものを見て、どれだけ苦しんで、どれだけ希望を信じられたか。
そんな経験が重なれば重なるほど、物語に深みを与える作品なのだ。
だから今、あの作品だけ理解出来ないという人がいたとしても、まあそれはそれなのだ。もしかすると、理解出来ないままの方がいいのかもしれない。
歳を取れば取るほど、不条理に出会えば出会うほど、あの物語に込められたメッセージに気づけるのだ。
ただ一つ問題があったとすれば、恋愛小説♡っていう状態で売り出したのがまずかったのかもしれない。いや、まあ恋愛小説でもあるんだけど。
多分、あの物語が響くのは、大人なのだから。
むしろあれを書いた頃の私が成熟しきっていた説も否めない。現に、同い年くらいの人たちはあの物語意味わからん、365の方が好きって言ってる。分からないままの方が幸せだと思う。これは、本当に。
でも私は深海に堕ちた。
先が見えず苦しくて怖くてもがき続けて、僅かな灯りで先に進もうとした。いつか、浮上した日に夜明けが見れる事だけを願った。
私はまだ深海を進むノーチラス号だ。先は見えない。窓の外に、脅威がすれ違っていく。恐怖は、足元からひんやりとした金属の冷たさで伝わった。脳内会議はいつもごちゃごちゃ。希望も、絶望も、全部抱いている。
気分次第で浮上しに行こうとしたり、反対にもっと下へ堕ちたり。それでも一つ言えるのは、あの頃よりも少しだけ、上目に航行している事。失われた大陸はまだ見えないけれど、信じ続けてもいいと思っている事、大きなパールは見つけ出すのではなく、自分で生み出す事。
私達はノーチラス号だ。
いつかの夏に、あれを読んだどこかの君たちが、夜明けを信じ浮上できますように。
浮上の仕方を教えて欲しかったけれど学ぶ機会を得なかった私が、誰かに送る浮上の物語だ。