白は光の色で全てを飲み込む色
神様、どうも。
白色が好きです。身にまとう色も、必然的に白が多い気がする。勿論、ラベンダーとエメラルドグリーン、ワインレッドにロイヤルブルー、目の冴えるような昼下がりの空も好きだ。
マジックアワーに溶けていく色味も、朝焼けが輝く海、紺碧に輝く夜、外から見た地球も、全部、全部美しい。
でも何だかんだ、最後に落ち着くのは白だ。
白の不思議な所が、何色にもなれるくせに絶対的な高潔さを持つ所。灰色になり、淀み、黒くなるのに、真っ白な鮮やかさは記憶から消えない事。
だから、白が好きだったりする。
数日前、真っ白な鳩を見た。急いで駅に向かっている最中、突然背後から白い何かが飛んできたのだ。私の左側頭部から落ちてきたそれは、一つの汚れもない鳩だった。
現れたのは近所の茂みの中、と言っても都内某所の大通りの側面にあるような、ちょっとした緑の道だった。
けれど、その茂みは不思議な事に、色鮮やかな蝶がよく飛んでいた。どうぶつの森で見たような蝶が何匹も飛んでいる。そんな不思議な場所だった。
数週間前まで紫陽花が咲いていて、側道を鮮やかに染め上げていた。歯医者帰りの私は足を止め、花を眺めるのが習慣になった。
しかしその日は急いでいた。
やばいと思いながら早歩きをしていた私の足を鳩は止めさせた。隣に降り立った鳩は、こちらを見ていた。白い鳩はアルビノだから、目は赤いと思ったのに以外にも真っ黒だった。
降りてきた鳩と見つめ合う事数秒、何だか面白くなった私は「びっくりした」と口にし笑ってしまった。鳩はそれで満足したのだろうか、歩き始めた私を横目に茂みの中に入って行ってしまった。
何を伝えたかったのだろうか。
そもそも、何故こんな所に白い鳩がいるのだろう。オーソドックスな鳩しか見た事無いし、ていうか鳩があまりいない。
実家にいた頃、近くの街で何度か白い鳩を見かけた事があるが、その白い鳩も完全なる真っ白な状態ではなかった。
まず最初に考えたのは、今日の私の匂いが鳩を呼び寄せたかもしれない事だ。
ゲランの香水の匂いか?とカーディガンを嗅いだが、鳩の気持ちにはなれなかった。
次に考えたのは誰かが飛ばしてきた事だ。実は近くにマジシャンがいて、白い鳩が逃げ出したのかもしれない。しかし辺りに人はいなかった。土曜日の午前11時過ぎ、熱射が降り注ぐ夏の一日に歩いている人間などいない。
考えても答えは偶然としか出てこなかった。世の中には奇跡のような偶然があるらしい。だからといって、何があるわけでもないのだけれど。
でも、偶然だと思いたくなかったのは。それが酷く美しい白だったからか。
この世に生きていて、野生という現実世界で一人戦っていたというのに。
汚れ一つない白だったから。
それはまるでシルクのようで。触れたら溶けてしまう雪のようで。真綿のように曖昧で。私の目を奪った。
あの白い鳩がただ、偶然私の元に飛んできたのなら。鳩は元気でいるだろうか。あれほど白かったら、野生のコミュニティーでは生きていけないかもしれない。
人間もそうだけど、動物は残酷だから。自分たちとは違う生き物を平然と仲間外れにするから。あの鳩がどれだけ強くとも、一匹になってしまうんじゃないかって。
苦しい思いを強いられるのではないかと。
勝手に、自分と重ねたのだ。
鳩にとっては、何言っとんねんと思うだろう。勝手に重ねて、心配されて。それがどれだけ辛くみじめであるか、私は知っている。
でも、あの鳩は。
ここにいない気がした。
現実世界に生きていないように見えた。開いた翼も、汚れ一つない羽根も、曇りのない瞳も、全部。神様が作ったみたいな。サモトラケのニケ、ダビデ像、石膏で出来た。あるいは精巧な。
生き人形に見えた。
君は何故ここにいるのだろう。東京の端っこで笑えるくらい寝坊した私に何か用だったのだろうか。もし用であればちゃんと話を聞けばよかった。もしもし、今日暑いけど大丈夫ですか?くらい、言っとけばよかったと思う。
不思議な事は重なるもので、その後友人と行った神社で久しぶりに白い猫に出会い、驚くほどいい事が書かれたおみくじを引いた。あの鳩から何かが狂ったのか。私には分かりそうもない。放っておくとまた、マイナス思考に陥りそうだから止めとこうと思う。
白が神様の色と言われるのは、多分、何者にも染まるのに高潔さがあるからだ。光の色だからだ。地球の裏側で見たマリア像も、白に包まれていた。
聖なるものは白く、悪に落ちたものは黒い。我々が長い歴史の中で作り上げたイメージである。でも時折、それが反対かもしれないと思う瞬間がある。
全ての始まりは宇宙の何もない闇からだったのなら、光はそれこそ闇を消し去るものになると思うのだ。まあ、色々考えたらキリがないし、どっちでも面白いから想像は自由であるべきである。
白い鳩で検索すると、候補には幸運の訪れと書き綴られていた。けれど幸運とは何だろう。私にとっての幸運は、恋よりも愛よりも、この作家人生が盛り上がりを見せより多くの人に物語を届けられるような、名前を出せばあいつか!と言われるような、そんな作家になる事だ。
宝くじが当たるよりもよっぽど嬉しい。ずっと思っているのは、宝くじで当てた1億よりも自分の才能で稼ぎ出した1億の方がずっと嬉しいのだ。まあ宝くじ当たるの嬉しいけど。
突然落ちてきたラッキーよりも、自分が長年取り組んでいる事が報われて結果として形になる瞬間に、何よりも喜びを感じる。
だから本を書き終えた時よりも、報酬が入ってきた時の方が嬉しい。これは単純にお金大好きだからっていうわけではなくて、私の働きに、私の削られた時間に、価値がつく瞬間が好きなのだ。だからこそ、不当な価値を見た瞬間悲しくなるのだけれど。
恋人と幸せな人生を送るのもいいでしょう。
昔の私はそれが一番の幸せだと思い込んでいた。
けれど世界を知っていく中で、一番は何物でもないのだと知った。人それぞれに一番があって、価値が違って、しかしそれでいいと認めあえる世の中には程遠い事も知った。
誰が誰を好きでも構わないし、何を一番にしても構わない。人それぞれ違う価値を、誰かが格付けする瞬間を何度も見た。その度に、私の幸せは何だろうと考えた。
私の幸せは、恋人でも結婚でも出世でも何でもなく。
ただ自分の創り上げていく世界が、より遠くまで届き、多くの人が楽しめるような形でその手に届く事だった。
そしていつか、海の見える港町の高台で、近所の白い猫と戯れた後、午後1時過ぎ。庭の木にかけた白いハンモックに寝そべって、すき間から見える太陽と雲一つない空、遠くに輝く海を見てから、
「またどこかで」
と呟いて終わりたいのだ。
来世があれば、今度こそ手に入れられなかったものを手に入れようと。でも今はもう、これで充分すぎるほど貰った。そう考えるのだろう。
もっとも、この人生が来世だったのなら。前の私も同じ事を考えたのだろうな。スピリチュアルな話をするが、もしかすると、魂って本当に存在するのかもしれない。
死んだ時、行き場の分からない21gが魂の重さだと言われるように。
私たちは肉体を捨てて魂だけになりどこか遠くへ行って、そこからもう一度現実世界に戻るかもう終わりにするか決めるのかもしれない。そんな物語も面白そうだ。
だから見覚えのない景色に懐かしさを感じ、聞き覚えのない言葉を口ずさんだり、無意識のうちに何かが変わっているのだと思う。
まあ何にせよ面白いよな。知識が広がるほど想像は膨らみ、いつか空に届くのだろう。
だから、もしあの鳩が何かを伝えに白い姿で私の視界を奪ってくれたのなら。
どうかそのまま汚れなきまま、何物にも染まらないまま、誰からも傷つけられる事無く、空に帰って欲しい。