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残り火に燃える : つか子と「あの人」   [ 4 ] ノバスコシア

つか子の胸がドキンと鳴った。 ポカラの旅からかっきり三週間目。ケータイからあの人が跳び出してきた  。   
           
               第四章 
    TOKYO - PHILADELPHIA - POKHALA - NOVA SCOTIA
     東京ーフィラデルフィアーポカラーノバスコシア
               秋の光
             NOVA SCOTIA
 
                1

20代のある日の日記には、[「心ぞうが裂かれるようなドキンを感じた」]とある。別れた後、あの人によく似た人が向こうから歩いてきただけでのことだ。

それから40数年後のつか子は、心臓がドキンと鳴った後、一瞬、ケータイを見るのをためらった。でも結局指が動いて、つか子にメッセージを見せた。

「旅行に行こうか」
「いいよ」これも、指が自然と動いていた。心の中は「あれっ?」と思いながら。もう二度と会うことはなくてもおかしくない別れ方をした二人が、次の旅行の話をしている。

「モントリオールは?」
「モントリオールはだめ、ごめん」
「どうして?」
「夫と行ったから」
「そうか」
つか子はもう一言加えようとしたが、よした。言い訳は要らない。妥協も不必要。夫と旅をした所は、あの人と行きたくなかった。それで良い。

間をおいて、
「じゃあ、ノバスコシアは?」
「行きたい」『あなたと』とタイプしてから、言い過ぎという気がして消した。「荒削りの岩が見たい」にした。

「僕、カナダ生まれなんだ」
「うん、そうだと思ってた」

「また一緒に旅行に行きたくなった。驚いた?」
「ううん」
「そうか。僕は自分で驚いてる」
つか子はこれにはどう答えて良いかわからずに、何も答えなかった。あの人の気持ちがどう動いているのかつかめずにいる。

「9月の第三金曜日、都合はいい?」
「その日も次の数日も空いてる」
つか子はなぜその日も次の数日も空いてるとまで言ったのだろう。旅行二日目は夫の命日だと付け加えなかったのが気持ちの底に残った。

「そしたら、僕が飛行機の切符を買う。パスポートの番号、教えてくれ。それから、フルネーム、生年月日。。。」
何も知らないあの人は自然に続けた。
「そう、何にも知らないんだもんね。じゃあ、わたしが宿をとる」

「今度会った時、言いたいことがある」
「何?」
「会った時がいい」
「そう。。。」

何だろう。言いたいことって。良いことじゃなさそうで、不安になった。つか子の想像力がふくらんで破裂はれつしそうになる。そして、つか子の方には聞きたいことがあるのに、まだ聞いてないのが急に気になった。
「私の方からも、聞きたいことがある」
「わかった。じゃあ、あいこだ」

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二人とも午後着く予定の飛行便を取った。夕食前に岩の見られるところまで散歩ができるから。つか子の便は問題なく着いたのだが、あの人の便に遅れが出て、夜ずいぶん遅くまで到着しないことがわかった。

つか子は、一人で岩まで出かけることにした。海の入った景色は知ってるつもりだった。

子供のとき年に一度の家族旅行で行った興津おきつ。海藻の匂い。夜、枕の下にきくリズムある波の音。父の馴染なじみらしかった旅館。

アメリカに来てからは、最初の夫の親戚の家がマサチューセッツ州のケープコッドにあり、松林を通っていつもおだやかな浜辺まで歩く静かな楽しみを味わった。子供たちは自転車に乗って。つか子はその時、海の匂いのしない海を不思議に思った。それでも、年に一、二度フィラデルフィアの街の喧騒けんそうから離れて、美しすぎるぐらい美しい人のいない海辺を楽しめるのを心待ちにした。

つい四、五年前にはハワイの海も。夫と二人で海の上と言いたいぐらいの家を借りて、目の真下には黒い火山岩がくだけた浜、その向こうは何もへだてるもののない、目に見える限り広がる太平洋の中に身をおいた。身体全体でまだ鮮明に覚えている。

ノバスコシアの景色はそのどれとも違った。大小の赤黒いとがった岩やもう丸くなった岩が、好き好きにあちこちに眺められる。優しい海景色とは言えない、つか子にはまた違った海の体験になった。

夕食は外で済ませてホテルに戻った。もうあの人が着いても顔を見ることはない時間になっていたので、つか子は海の空気を吸った勢いでその晩ぐっすり眠った。

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翌朝、早起きのつか子は、ホテルの朝食の始まる頃には起きて、夫の命日だという思いにひたった。しばらくして、あの人からの連絡が入った。嵐のため遅れた飛行便がなお遅れて昨夜には飛ばず、嵐が通り過ぎてからの出発で到着は昼頃になるという。

それを聞いてつか子は、今日午前中一人海辺で過ごせることに誰にともなく感謝の念がわいた。

散策のあと部屋に戻り、あの人の連絡を待った。

ノックが聞こえてドアを開けると、ザックリとしたあい色のジャケットを着たあの人が立っていた。表情からはつか子が知ろうとする何もうかがえない。少し背が伸びたかなと思った。そんなはずはない、やせたのかもしれない。

ここで、抱きついても良いのだろうが、どうも、それは今の二人の間ではそぐわないという気がした。まだぎごちなさが残っているのを感じながら「おはよう」と言って微笑んだ。ポカラで最後に会った時、もうそれで終わりと思った二人が、こうやってまた会っているのがまだ説明できていない、自分にも互いにも。

昼食は美味しかった。そのあと、ベランダに散らばるパラソルの下の丸いテーブルに座って、岩の削りは荒々しいがやはり美しい自然を目の前にして、二人はしばらく黙ったままだった。

つか子とあの人が同時に話し始めた。それで二人は笑った。それだけで、つか子の気持ちはずいぶん楽になった。「それで、言いたいことって?」するとあの人は、「つか子の聞きたいことって何?」

いつものつか子だったら、相手の言いたいことをまず言ってもらうのだったが、ずっと気になっているこのことを聞かないと、胸に何かつかえている感じがぬけない。それで、つか子は切り出した。

その答えによってはこの旅行の意味が変わってしまうのを知りながら、つか子は切り出さずにはいられなかった。こういうところが、自分でも厄介やっかいなところだと思っている。自分にあるいは「不利」になるとしても、明らかにしようとするところ。

思い切って口を開いた。
「私があなたに近づくことで傷つく人がいるの」
あの人に、スパッと「いない」と言ってほしかった。
「いない。君以外は」
「それ、どういう意味?」

「僕が思う君の言ってる傷つく人はいない。でももし、いつか将来、君が僕に『愛情』のような気持ちをもったとしたら、僕が同じような気持ちで答えられるか自信がない。僕にはそういう感情が無理なのかもしれない。その結果君を傷つけるかと思うとそれが今から辛い」
   
つか子は今聞いたことを反芻 はんすうしていた。傷つく他のひとはいない。それがはっきりして安堵の波に乗った。その後のことは言葉は聞こえたが、どうもよくわからない。今理解するのは無理だと観念して、あの人の言いたいことをまず聞きたい、これは後にしようと思った。

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それで、今度はあの人にバトンを渡すことにして、
「そう」
「それで、あなたが言いたかったことは何?」

「うん。それを話したら、僕の今言ったこともわかってもらえるかもしれない。まずどこから始めて、どう言ったらいいのか。。。」
あの人はしばらく下を向いて、それから思いきったように話し始めた。つか子の顔は見ていない、どこか空間に目をおいて。
「僕は農場で育ったんだが、めいにトビーというのがいて」

思いがけず、今まで話したがらなかったあの人の生まれ育った家族の話が出てきて驚いたが、気持ちをおさえて、つか子は「ええ」とだけ言ってうなずいた。

「僕がものすごく可愛がっていたんだ。三歳だったんだが、上二人がお兄ちゃんで、やんちゃで、男の子の好きなものばっかりで遊んでたから、僕が誕生日に、真っ赤なおもちゃのトラックを買ってやった。初めてもらった自分のトラックがものすごく気にいって、その夏は、それでよく外で遊んでいた」

そこで、あの人はいったん言葉を切り、続けた。
「ちょっと書いたもの、ここに持ってきた。読んでくれないか」
「うん、ここで?今?」
「うん、僕の前で」
「わかった」
あの人はつか子にタイプ打ちの紙を渡した。

「僕の歴史:君と会ったとき、僕は二十八歳だった。それから君はアメリカに発って、僕と妻は横浜にうつった。妻とは五年で別れることになったが、その二年前、僕の弟に大変なことが起きたんだ。

兄弟はみんなで三人、僕と弟、それから妹。農場で育った。僕が父と母の後をいで農場をやると思っていた親戚もいたんだが、僕は絵が好きで、農場を継ぎたくなかった。それで高校に入ってからそう言ったら、それじゃあ、弟が継ぐかということになって、弟がいやといえばどうなったかはわからなかったが、やっても良いというので、結構スムーズに僕の責任がなくなって、好きなことができた。

弟は早く結婚して三人の子持ちになって、農場の方もうまく行っていた。 それがある日、急に近所で修理に人がいると聞いた弟は、いろんな道具をのせて車庫からトラックを出したんだが、その時車庫の前の地べたにしゃがんで遊んでいた娘のトビーが見えなくて、|轢いてしまった。

音を聞きつけた弟の妻と甥たちが悲鳴を上げたんだが間に合わなかった。トビーは死んでしまった。それは僕が31の時で日本にいた。僕はすぐさま飛行機にとび乗って国に帰った」

「間に合わなかった。トビーは死んでしまった」そこまで読んで、つか子は息を止めた。そしてあとは涙があふれ出て読み続けられなかった。そこでつか子は顔をあげ、あの人を見た。「どこでどうやってあなたは聞いたの」つか子を見ずに遠くを見ながらあの人は答えた。

「妹のミッチーからの電話だ。僕はパートで働いてた事務所で次の会議にいる書類をプリントしてるところだった。プリンターがうまく動かなくてイライラしてた。カナダから電話だと誰かが取りついでくれて返事をした。ミッチーが何か言ってるのだが、耳に入ったのはトビーとトラック。それで、トビーがトラックで遊んでる話かと思って耳半分で聞いてたんだが、トビーの葬式とミッチーが言うんだ。

『葬式?誰の?』とび上がって僕が聞いた。
『トビーのよ。わたしの話、聞いてなかったの!』と妹が怒った。そこで初めてことの重大さを知った。『ライアンを出してくれ。ライアンと話したい』『ライアンは今話せない』『じゃあ、ジュリー』『ジュリーも子供たちのことで手一杯』『何があったんだ一体?』

そこで、妹はもう一度始めから話し出した。『今日近所の人がライアンに、小屋を修理するのに手伝いに来るはずの人が急に来られなくなったから、すぐ来てくれないかというんで、ライアンはトラックに機械を積み上げ、車庫からトラックをバックして出たんだけど、地べたで一人で遊んでいたトビーが見えずに轢いてしまったの。

それを家から出た途端に見たジュリーが悲鳴を上げ、後ろからついてきたトビーの二人の兄弟も大声を上げた。でも間に合わなかった。。。』そういう話だった。妹はまだ何か言っていた。『兄さん、お葬式は土曜にするから、来られるの。来てよ』ということだった。

『もちろん行くよ。明日にでもここを出る』と言って電話を切った。プリンターは止まらずに何十枚もプリントし続けていたが、僕はその場で立ちすくんだままだった。僕の頭は混乱に混乱していたが、まず僕が農場を継いでいたならこんなことは起こらなかった、トビーはまだ生きていてこれから大きくなったはずだと、そればかりが何度も何度も頭に浮かんだ」

そこまで聞いたつか子はもうもらった紙は折りたたみ、自分の顔をあの人の方に向けて話の続きを待った。眼は涙でもう開けられないほどだった。

「カナダの家に着いたとき、弟のすっかり面変おもがわりした様子を見て胸がつぶれた。こんな時に何が言えよう。抱き合ったが弟も僕も涙なんか出なかった。口には出さなかったが、心の中で俺はライアンに謝った。ジュリーにも謝った。謝り続けた。僕に起こるはずのことが、僕が勝手に家を出たのでそれがライアンに回ったんだ。

葬式は教会でしたが、もともと信仰のうすかった僕は、いよいよ神を信じるなんてことはできなくなった。『主は与え、主は取りたもう。主の御名みなむべきかな』とんでもない。神がいるとしたら、とうてい神を許せない。あのトビーが何をしたというのか。ライアンが。。。」

「神がいるとしたら、とうてい神を許せない。。。」この瞬間、つか子の心持ちはこの人と一つになった。この気持ちを過去にも抱いたことがある、いや今でもその心持ちはつか子の中にある。「もし神がいるとしたら。。。許せない。。。」戦火を逃げまわってきた母親が飢えて声も出ない幼な子を胸に抱きかかえて呆然としている姿。。。

「葬式が終わり、僕は残った。勤め先にはしばらく戻れないと告げた。その先もどうするかわからなかった。弟はひどく打ちのめされていた。ジュリーも。幼い兄弟二人も。ライアンは事故以来人が変わったようになって仕事が出来なくなった。しばらく時間をおけばということだったんだが、それがうまく調子が出なくて長いことかかった。

結局一年近く僕は日本にもどらなかった。その後も毎年できる限り長い間家に帰って一緒に過ごした。それが何か役に立ったかわからないが、弟は良くなってるようだった。帰るたびにジュリーの顔も明るくなってきた。弟は立ち直ったかに見えたんだ。。。」そこであの人は口を閉じた。

つか子は口をはさまなかった。何が言えよう。しばらく黙ってから、あの人が続けた。  
          
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「毎年、トビーの命日には皆で墓参りしたんだが、十年近く経った頃、僕は学校に職場を変え、その日にはもう学期が始まってて帰れなくなった。それでも家族や親類はいつも集まっていたし、僕も毎年いつもその日には電話を入れて、ライアンと何でもない話をしていた。

事故から13年経った年、いつものようにライアンと電話で話した。何か新しい作物を始めるとかで張り切っているようだった。それを聞いて僕もすごく嬉しかった。ただ最後に、名前は口に出さなかったが前後の脈略 みゃくりゃくなしに、いきなり『今年十六歳になってるはずだ』と弟が言うのに驚かされた。

そう、弟も僕も毎年心では思っても、『トビーが今生きていれば幾歳いくさいになってるはずだ』などと、一度も口に出したことがなかった。そこで、僕は、おやっと思った。そうだね、とだけ言って電話を切った。

ジュリーにこのことを言った方がいいのか迷った。せっかくジュリーが、ここの所ライアンが今度こそ本当に立ち直ったみたいと喜んでいるのに、要らぬ心配をかけたくなかったし、僕は学期の初めで考える余裕は全くなかった。そもそもライアンの言ったことがどんな意味をもつのか検討もつかなかった。。。」

あの人は大きなため息をついた。つか子も息を大きく吸った。英語で「もう片一方の靴が落ちるのを待っている」と言う表現があるが、それが来そうでつか子の胸はおそれで締めつけられそうだった。

あの人は続けた。「それから五日後、夕食を作り始めたところに電話が鳴った。カナダからだが、それはしょっ中あるので何とも思わずに電話を取った。ただ、カナダ時間のことを思い、ずいぶん早起きだなというのがちょっと頭をかすめた。

ジュリーだった。声がうわずって、何を言っているのかはっきりしない。ジュリーは『今度はライアンだ』と言うのだ」

つか子は眼をつむった。

「『ライアンが死んだ、交通事故で』早朝、ジュリーも気がつかない間に、ライアンが一人で車を運転して、少し離れた登り道が曲がろうとする角の大きなカシの木にぶつかった。その道を朝早く車で通りかかった人が見つけたんだそうだ。車の中のライアンにはもう息がなかった。」

あの人は苦しそうにつけ加えた。「それが事故だったのか自殺だったのかが問題になって。。。僕が継ぐはずの農場を好きな絵をしたいからと言って継がずにいたのが、結果的に弟まで殺したとそればかり頭にあった。」

つか子はもうこらえ切れなくて両手で顔をおおって泣き出した。あの人が自分をどう見ているのか、もう考えにいれることは出来なかった。

つか子が落ち着くまで、あの人はそのままの姿勢でただ黙って待っていた。そして口を開いた。

「もちろん僕はすぐ帰った。それで農場をどうするということになって、結局親戚が買ってくれたので、弟の嫁も甥二人も生活は一応できる形になった。この間、僕の絵の方はずいぶん遅れたが、ともかく一応けりがついて、定職に就くこともできて、それからは僕には仕事の上で幸運が続いた。」      
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肩で大きく息を吸ってあの人は続けた。「ただ、夏の終わりになると、毎年毎年、僕の気がめいり、どうしたらよいのかわからなくなる時がある。そんな時にメールをもらったので、何も考えずにとびついたというわけだ。君も驚いただろうと思う。正直言えば、君もだが、ヒマラヤというのにとびついたのかもしれない。」

話している合間合間に、あの人は真前の海を見ているはずなのだが、つか子から見ると、見えるはずのない、ここからはるか遠くにそびえるヒマラヤを見上げているように見えた。つか子が顔を上げると、これからが本題とでもいうようにつか子の顔を見た。

「僕はやっと気づいたんだが、長い間、ずいぶんさびしかったんだって。それで、君がああやってメールをこの夏くれた時、驚くより前に『これを待ってたんだ、僕は』って思って、それでそのままポカラまで飛行機にとび乗って行った」

つか子は何も言えなかった。いったん涙の乾いた頬に、一すじ、二すじ涙がほおをこぼれ落ちるのに気づいたが、何もせず、じっと耳を澄ませて聞いていた。

「仕事はやったし、良い同僚も友人もいる。気持ちのいいパートナーもいる。離れてはいるが前の妻との子供もいる。健康だしハイキングでもなんでもできる。 でも、胸のどこかで風が吹いているような、そんな気分になることがたまにあった。

いや、今もある。むなしいと言っていいのか、何だろう。何か分からない。だから、さっき言ったように、もし君が僕に将来『愛情』のような気持ちをもったとしたら、それに同じような気持ちで迎えられるか不安だ。僕にはそういう感情が無理だという気がする。その結果、君が傷つくかと思うとそれがつらい。」  

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つか子は、よっぽど立ち上がってあの人を自分の腕で抱きしめたかったが、それはがまんした。それであの人の手を取って自分の両手でつつんだ。人間は悲しい存在でそれは古今東西変わらないのだと思う。ただ、つか子が伝えたかったのは、あの人が今抱いている感情、それだけでつか子には十分だと言いたかった。それでそう言った。

「もうずいぶん生きてきた。愛したこともあるし、愛されたこともある。辛いこともあったし、まちがいも犯した。人生にむだなことは何もないと母は言っていたが、ずいぶんむだをやった気がする。宇宙から見れば、ほんの短い間生きて、いつかそう遠くない将来、この人生を終える。その中で、このひとときはそれだけで十分。もう何も要らない。将来の約束など願ってもいない」

そう言ってから、実際に、将来の約束など、つか子には何の意味もない気がした。これは、人生の終盤を迎えた者たち、自分を愛してくれた人の多くがすでにこの世を去った者に共通の思いなのだろうか。ただ、それに反比例して、たった今、この瞬間が黄金 おうごんにもまさる気がする。

つか子は「たった今」に戻った。あの人の言った言葉の中で「むなしいといったらいいのか、胸のどこかに風が吹いているような気持ち」というのが、胸に刺さった。涙をふいて、なぜかつか子はこう質問した。「そんな気持ちが起こらないのはどんな時?」

少し首をかしげてあの人は答えた。「そうだなあ。子供に絵を教えてるときかな。ちっちゃな子供にずっと絵を教えてきたんだけど、ある日、一人の生徒の母親がやってきて、娘の二歳年下の妹も連れてきて良いかと聞くので、もちろんと答えた。母親が続けて、それが障害のある子だというんだ。

その子がやって来た。他の子供たちは僕がびっくりするぐらいすぐにその子に慣れた。そして手伝ってくれるんだ、僕がこの子に絵を描かせようとしたりするとき。この母親が話したのかどこかで聞きつけたのか、それからは身体のどこかしら不自由な子供たちが来るようになった。

その中には交通事故にあった子供たちもいる。僕は子供のクラスを教えるとき、トビーがあの日、どんな障害があっても生き残ってくれさえすればと思わない日はない。そしたら、あのおてんばのトビーのことだ、きっとがんばって障害を乗りこえて、生き続けてくれただろうと思う。そしたら、ライアンだって死ななかっただろうと思う。でもこう思ってる限り、僕の内で締めくくりがつかず、いつまでも後悔にさいなまされる、それがわかっていながら、。。。」

ここで、つか子は母親の「卒業」するという言葉を思い起こしたが、それが簡単にできるぐらいならあの人はとおにしている。それが出来ないから苦しんでいるのだ。

つか子は聞いた。「その子供たちの中の誰かのこと、話してくれない?どんな子がいるの?」

すると今まで辛そうにしていたあの人が一変して何とも柔らかい表情になった。

「あいちゃん。あいちゃんは満月みたいにまんまるい顔をして、口が聞けないけど、僕のやってることが気に入らないと顔をくしゃくしゃにして首を横にふり、それを僕に伝えるんだ。絵を描くのは足の指先に絵の具ペンをはさんでやる。自分でうまく出来たと思った時はものすごく嬉しそうに小さな身体を左右にふるからすぐわかる。それを見たくて、僕は一生懸命あいちゃんの絵がうまくいくようにがんばって教えてるんだ。」あの人は笑顔になった。

「あいちゃんがもしあなたのとこに来られなかったら、どんな日を送るんだろう。」
「う〜〜ん、医者の診察がない日は、テレビを見たりタブレットで遊んだりしてるんだろうと思う、一人で。」
「そうか。そうすると、あなたのとこの絵教室はあいちゃんの週のハイライトかもね。」
「僕のハイライトであるのは、確かだ。」

つか子は心底あの人のことをうらやましく思った。それでそのまま言った。
「あなたがうらやましい」
「どうして?」
「だって、一人の子供としっかりつながったひとときをもって、あなたは自分の持ってる技術なり知識なりで、その子の生きてる瞬間を明るくしてるんだもの」
あの人はそれを聞いて肯定も否定もしなかったが、表情は明るかった。

調子がついたのか、あの人は続けて「きみお君もいる。きみお君はあいちゃんと反対で、教室に入った途端にしゃべり出して、さよならするまでノンストップ。でも絵を描き出すとそれがうまいんだ。こっちから、これ何?とか言わなくても、上手に説明してくれる。ああ、てっちゃんのこともいわなくちゃ。てっちゃんは耳が聞こえない。だから。。。」

つか子が何かいわない限り、ぶっ通しであの人は次々に自慢の生徒たちのことを話してくれただろう。                 

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「なんだ、あなた、話せるんじゃない」そう、つか子はからかった。「どうしてポカラでは無口だったの?」
「だって、君の一人舞台だったから遠慮してたんだ」
「なんだ。それじゃあ、私の話なんか、耳半分で聞いてなかったんでしょう」「そんなことないよ。肥溜めの話はまず、忘れることはできない!」
「いやだ。その話はやめて」
「お父さんがサ・セ・パリをオルガンで弾いたこと」
「あなた、ピアノなんか弾けるの?」
「うん、ちょっとやった」
「いいなあ。うらやましい。音楽できる人、尊敬しちゃう。特に男の人」
「尊敬してくれてもいいけど、恋には落ちないでくれ」
「落ちるわけないじゃない。落ちそうになったら日記を読み直せば、あなたが本当はどんな人かすぐわかるもん。それより、あなたの方こそ、わたしに片思いなんかしないようにね」

「その日記だが、本当はないんだよね」
「それがあるのよ。残念でした。でも心配しないで、公表するつもりないから、本名では」こういう軽口を交わすようになったのは驚くべき「進歩」だ。四十数年前はこうだった。

「それに、百人一首。僕も練習したことあるよ」
「へえっ。それじゃあコンピューターでやってみようか。どっちが勝つか」
「僕が勝ったら、日記を見せろ」

「でも、君は本当に泣き虫だね」
「感情過多なのよ。でも泣けてよかった。あれだけ泣くと、どこかスッキリした。話、聞いてくれてありがとう。あの涙だけでも旅行の価値あったと思ってる」
「そう、僕も、今日、話を聞いてくれて、感謝してる」
「おあいこね、じゃあ」
「うん。あいこだ」  

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もう夕方になっていた。ポカラでは今ごろ部屋に戻って夕食は食堂で一緒にし、そのあと散歩しながら話すのが二人の「日課」になっていた。

でも今日は夫の命日。それを言うのは明日にしたかった。普段だったら一日中夫の思いと過ごすのだが、あの人の到着が遅れたおかげで、昨日わかち合うはずの話が今日になり、半日あの人と過ごした。その半日がどんなに大きなものだったか。。。それだけでもつか子の胸はいっぱいだった。あとの時間は一人でいたかった。

何も言っていないあの人に、今日は一人でいたい、明日の朝食を一緒にしたいと告げると、ほんの少し驚いた表情をしたが、すぐに「わかった、明日、朝食に迎えにいく」と言ってすぐに腰を上げた。

これだけ生きていると、自分の思いもつかない説明もできない何かがどの人にでもあるだろうという想像力が生まれる。生まれる人には。

「今日は夫の命日だ」などと言わないで済むのを心の中で感謝した。やはり昔、惚れ込んだだけのことがある!そして人生で傷を負った人は人のそれにも敏感で、自分にわからないところもそのまま受けとめてくれる。

一人になって、つか子は自分にも「あいちゃん」や「きみお君」がいてくれるのに気がついた。

ある友人は50年近くグアテマラ、アティトラン湖畔に住む原住民のの手作り品をフィラデルフィア市路上で売り、村人たちをサポートしてきた。連れて行ってもらったつか子は村人たちに家族の一員として愛し愛されている友人を見た。あるクリスマスイブの友人の言葉。「道を通る人たちがあっちらこっちら、どこを向いて走ったら良いのか皆目見当がつかないようなんだけど、こっちはこの場所でこれを売るというのが私の今日だと知ってるからほんとにラッキー」友人には売れない心配はあっても虚しさはない。

別の友人は一万年以上前からこの地域に住んでいるアメリカ先住民、レナペ族の絶滅言語ぜつめつげんごを生き返らせようとしている。不可能ともいえるチャレンジに魂を込め情熱をもって挑んでいる。その熱い思いはつか子の胸をも熱くする。

こういう人々が周りにいてくれるおかげで、つか子は毎朝起きるのがつらくない。

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静まった夜更け、眼を閉じたつか子の胸に走馬灯のように浮かんだのはあの人でなく夫の姿だった。

普通の夫婦なら誰にでもある当たり前な日々、起きがけ、朝夕の食事、散歩、小さないさかい。。。

その中から脳裏にくっきりと浮かび上がったのはつか子が思いをそこにもっていくのを避けてきた夫の終わりの始まり。。。キューバ旅行中二日目まだ夜の明ける前に夫の呼吸困難の発作の助けを求めてホテルの中を走ったとき、リパビリの帰り正面から吹きつけてくる冷たい風で背の高い痩せた夫の身体が倒れないようその腕を自分の手にとり家路を急いだ夕暮れ、早朝、身体中震えながら救急車を呼んだ瞬間。

たった今、夫の眼差しを感じる。つか子は眼を開け思わずその姿を探した。どこにもいない。。。

深く息を吸いこみ再び眼を閉じると走馬燈はあの人を映し出した。

ポカラの空港で「君は?」といった仕草をして顔を見合わせたとき、その表情には思っていた柔らかさはなかった。悲しみに沈むつか子の肩を黙って抱いた。暗い部屋、つか子の手をとりそこに口づけをのこした最後の晩。

ここノバスコシアでは初めて自分の生きてきた痛みを分かち合ってくれた。宙を見ながら話した姪のトビーの最後、苦しげに告げた弟の死。

天からふった災いと他人には思えるもの、それでも本人は自分のせいだと受けとめて苦しんでいる。「僕が農場を継いでいたならトビーはまだ生きていてこれから大きくなったはずだ」好きなことをしたいからといって責任を逃れた。「それが結果的に弟まで殺した。」そう思って生き続けるのはどんなに辛いことだろう。

つか子を母親にしてくれた息子たちが産みの母親が自分を手放したのを自分が悪かったのだと責めているのを知って、強い衝撃を受けた。理屈じゃない。周りの人が何と言っても、本人がそう受けとめているのは止められない。

息子たちのこの取り去ることのできない悲しみは生きている限りつか子の悲しみともなっている。

今、あの人の悲しみもつか子のものとなって生き続ける。知らなかった前の自分を永久に変えてしまう。

若いころ一つになろうとしながらなれず苦しみ苦しませながら悲喜交々を味わったカレとの日々、未だにどう捉えていいのか答えの出ない「一番近しいはずの人を幸せにできない」と思い続けた夫婦となった彼との19年、半世紀をすぎてから人生の終盤を共に過ごした夫との年月、期間は比べものにならないほど短かったあの人とのいっとき。

やさしさのあまり、つか子は人生でしなくても良いむだをしてきた。一歩進める時に躊躇し、ここ一番の大切なときを避けチャンスを逃し、声を出すべきときに出せなかった。その悔いは悔いてもあまりある。

ただ闇の中でつか子が気づいたのは、この「やさしさ」のおかげで今二人の間の膨大な距離が近づいたこと。

悲しみを取り去ることなどできない。ただ「やさしい」つか子はあの人の悲しみと瞬時にして一つになった。自分を失ってしまうだろうと母親に気づかわれたつか子。それでもやさしさがあの人とつながる道を見つけた。まるでやさしさが悲しみの友だちになったかのように。

遠い昔のあの人の姿を走馬燈は見せない。

長いながい空白。40数年、誰だって変わらないはずはない。頭ではわかっていてもつか子は心の中であの人に変わっていてほしくなかった。ここにいるこの人。それが昔のあの人であってほしい。

ポカラの空港で出会ったとき「つか子?」と呼んで以来あの人は名前を呼んでない。その時だって「君はだれ?」の代わりに言っただけ、「そうか、自分の前にいるのがつか子なのか」といった自問自答だった。

つか子もあの人の名前を呼んでいない。心の中ですら名前を呼べない。深い感情を引き起こしこわれそうになるのを恐れて。自分が自分であるのは昔も今も確かなのだが、再会したあの人が遠い記憶に刻み込まれたあれほど好きだったあの人なのか、それとも今では全く別人なのか。。。

ここにいる人、誰なのだろう、そう思い巡らす。

いったいそれがそんなに大切なのだろうか。。。この人の悲しみは今自分の一部になった。もう離れない。

恐るおそる胸の中であの人の名を呼んでみる、一度、二度。。。ジーンと胸に響く。三度。
眠りにさそわれたつか子は眼を瞑り、口をひらく。

ラッセル。。。




            ーーーーー


    残り火に燃える:つか子と「あの人」

 プロローグ      : わたしのダブルに会っちゃった

  第一章    : 春浅く
  第二章    : 春深まる
  第三章    : 夏の夜明け
  第四章    : 秋の光  
    エピローグ    : 強  烈  な    瞬  間

残り火に燃える:つか子と「あの人」 プロローグ

残り火に燃える:つか子と「あの人」 [ 1 ] 東京
残り火に燃える:つか子と「あの人」 [2] フィラデルフィア 
残り火に燃える:つか子と「あの人」 [3] ポカラ 
残り火に燃える:つか子と「あの人」 [4] ノバスコシア 

残り火に燃える:つか子と「あの人」 エピローグ

長編:[完 ]残り火に燃える:つか子と「あの人」プロローグ・本章・エピローグ:編集中

最近の作品: 
『田中美津さん もしも あなたに逢えずにいたら』 
『田中美津さん:ミューズカル・女の解放 『おならがなんだあ』再考』
『人[.を ]見たことのない土地』     『救急車のサイレン』      『夫の質問:タンスの底』       『外せないお面』 
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『アフリカ系アメリカ人:一瞬たりとも』   『明治の母と昭和の娘』 
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『伝統ある黒人教会のボランティア』   
『スッキリあっさりの「共同」生活』 

 
木下タカの短歌作品
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母の短歌 [5]  母の短歌 [6]  母の短歌 [7]  母の短歌 [ 8]
母の短歌[ 9]

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

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