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#ショートストーリー
長編小説『because』 79
「涙止まった?」
「ううん、止まらない」
もう随分前から止まっている涙に嘘をついた。涙を流し続ければ、彼はこうして私を抱いていてくれるし、涙が止まってしまえば、彼は確実に私から離れてしまう気がしたから。
「しょうがないな」
「うん、しょうがないの」
彼は私の背中に回した手に少しだけ力を入れ、それに応えるように私も少しだけ力を入れた。
「沙苗さんは笑っていなきゃ、ダメだよ」
彼は私の耳元で、息を吐く
長編小説『because』 77
どういった意味の答えなのか分からない私はその言葉に喜んでいいのか、悲しんでいいのか分からずただ呆然と立ち尽くしたまま、もうすぐ沈んでしまう夕日を眺めていた。
彼に「どういう意味?」と、ただそれだけ聞けばよかったのに、その時の私もやっぱりそんな事できなくて、彼の背中はその時から、そういった雰囲気を私に与え続けていた。
夕日が段々と霞んでいき、いつの間にか私の目からは涙が溢れ始めて、どうして私は泣
長編小説『because』 76
そこには確実に一つの節目があって、そこにラインを引いて、そのラインより現在、それが彼と私が恋人同士であるという証になっている。
「好き」
彼と何度会った時の事だっただろう。私は彼の背中目掛けてその言葉を吐いていた。気付いたら吐き、その後すぐに少し後悔し、そしてまたすぐにその後悔を拭い去ったのだった。彼は振り向いて私の目を見ていたけど、何も言わなかった。ずっと私の目を捉え、その止まってしまった
長編小説『because』 75
インターホンの音が鳴り止むと同時に、さっきまで感じてた風の音とか洋服の擦れる音が聞こえなくなった。多分、今耳が受け入れようとする音はドアノブの傾くがちゃっという音だけで、その音を拾おうと私の意識がそこにだけ集中しているせいだろう。だけど、そのがちゃっという音が聞こえる事は一向になく、私の中の音は死んでしまったままだった。しびれを切らしたでんぱちがもう一度インターホンを押すと、ピンポーンという音が
もっとみる長編小説『because』 74
冷静になってみれば、疑問はいくつも浮かんできそうなものだけど、私はそれらを特に気にしなかった。気にしない事も大きな疑問の一つであるけれど、疑問を疑問とも思わなかったのだ。ただこの時頭の中に唯一あった疑問と言えば、その人はなぜこんなに豪華なマンションに住んでいるのだろうかという事、その人に対する金銭的な疑問だけだった。
そういえば私はその人がどんな仕事をしていたのか聞いた事がない。この家を知ってい
長編小説『because』 73
「ここか?」
とでんぱちが言ったので、私は「ここよ」と答えた。
その人がこのマンションに住んでいる事を私はなぜ知っているのだろう。今更になってそんな疑問が浮かんだ。もう、当たり前のようにその人がこのマンションに住んでいるという事が私の頭の中には張り付いていて、そんな事疑いようもなかったのだけれど、ドアの前まで来て、ようやく不思議に思う。不思議に思うけど、やっぱりその人がこのマンション、このドア
長編小説『because』 72
「ここよ」
私とでんぱちは、この辺りには珍しい高層マンションのある部屋のドアの前に立っていた。この街のシンボルであるのかと思える程に高い建物は、真四角に空に向かってそびえ立っている。高いと言っても、階数で言えば十二階にあたる高さで、この街ほど周りに低い建物ばかり並んでいなかったら、これほどまでの存在感はないだろう。
ただ一つ言えるであろう事は、この周辺では間違いなく家賃の一位、二位を争う物件であ
長編小説『because』 71
「どう?」
気付いたらそう聞き返していた。私がそう聞き返すと、その人は静かに笑った。口を閉ざしたまま、ほんの少しの笑みを顔に表したけど、それはすぐに消え去ってしまい、トイレから戻ってきた彼は元いたその席に腰を下ろした。彼が戻ってくると、自然に会話は流れ始め、また私と二人の間には分厚い壁ができる。
きっと、彼がトイレに行く前に繰り広げられたいた会話は途中だったのだろう。彼が戻って来てすぐに再開した
長編小説『because』 70
お店に一組のカップルが入ってきた。ウェイトレスの女性の「いらっしゃいませ」という言葉が店内に鳴り、そのカップルが何か会話をしている訳ではないけれど、店内が少し賑やかになった。そして店内にいる私たちの存在が少しだけ薄まり、緊張の糸が緩んだ。
「あいつとは長いんですか?」
その人は私に気を遣うように話し掛けてくる。私はその流れ出す言葉に乗る事ができず、彼のようにするりと言葉を返す事ができない。必ずワ
長編小説『because』 69
二人の会話がどこをどのように進んでいるのか分からなかったし、私は自然な流れでガラスの向こう側に視線を移そうとした。
「”こと”といいます」
私がガラスの向こう側へ視線を移しきる前にその人はそう言った。何の事を言っていたのか分からなかったし、それがまさか自分に向けられた言葉とはどうしても思えない。今その人の目の前には私しかいないのに、そう感じる。それでも、その声に引き寄せられ私はその人の顔の方に目
長編小説『because』 68
二人は隙なく会話を続けた。私がすぐ隣で相槌を打つのさえ難しいくらいに、二人は二人の世界の中で会話をし、それは確かに私の知り得ない内容だったからかもしれないけど、多分、ここにいる三人が共通して知っている人物、事柄の話をしていたとしても、私は今と全く同じような疎外感を味わっていたに違いない。今、確実に私とこの二人の間には見えない分厚い壁があって、たまにその人は私を気にしてか、こちらの方に目を向けてい
もっとみる長編小説『because』 67
「よくそんな昔の事を憶えてるな」
「記憶力だけはいいんだな、昔から」
「そういえばそうだったよな。昔から記憶力だけはよかった」
「そうそう。記憶力だけな」
二人の会話は心地よく流れた。既にお互いが言う言葉を、それよりも先に知っているかのように、変に考えたり、間が空いたりする事がない。でもそれはある意味隙がなく、その二人の隣にいる私は酷い孤独感さえ感じてしまうくらいだった。それでも、居心地がいいこ
長編小説『because』 66
「幼なじみなんだ」
彼がやっとその言葉を口にしたのは、その人のパスタがテーブルに運ばれてきた頃で、それまでの間私たち三人はほとんど会話を交わす事なく、それぞれのグラスに注がれている水を飲んだり、空になったワイングラスを弄んだり、ガラスの向こう側で行き交う人々に視線を向けたりしていた。
お店にはまだ私たち三人だけしかおらず、お店全体が奇妙な程の静寂に包まれているようで怖いくらいだったけど、その静
長編小説『because』 65
ただ、それくらいの会話を交わしただけの時間だからものの数秒である事に間違いはないと思う。ウェイトレスの女性がグラスに水を注ぎ、私たち三人の座るテーブルに持ってくるまでの、本当に少しだけの時間を私はとても長く感じ、女性が「どうされますか?」と彼にメニューを渡すまで、意識がずっと遠くにあったように感じた。
「じゃあ、ミートソースで」
その人がそう言うと、私たちに向けたそれと同じ笑顔を女性はその人に返