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もののけ姫の多角的考察

今回は、ジブリの4作品が映画館で見ることができるということで、「もののけ姫」を見てきました。色々と考えさせられる作品だったのでここに考察を書かせて頂きます。

もしかすると今までにないような視点もあるかもしれないので、良ければ一部だけでも覗いていってください(^^)

1.映画館で対峙するもののけ姫

やっぱり映画館で観ると、深く奥行きのあるサウンドが、ジブリ特有の世界観に入りやすくしてくれるように感じました。遠くからスーッと抜けるように聴こえてくるような笛の音色は、森のどこか幻想的な雰囲気、生命の畏敬の念、何か不穏なことが起こりそうな微かなざわめきをまことしやかに表現しています。

2.ハートの法概念から考える映画の「内」と「外」


イギリスの法哲学者、ハートの「法の概念」に内的視点と外的視点という考えがありますが、映画館だとその映画の世界の中、つまり内的視点に入りやすく、そして入ったら出にくくしてくれるのかなと感じました。

どういうことかというと、内的視点はその言葉の通り、映画の世界観の中に入ることです。

それに対して外的視点は「今、私は映画館で映画を観ている」という作品の外の客観的な視点です。「冷房が寒いなぁ」とか「あ、遅れて入ってきた人がいる」「この映画が終わったら晩ご飯はあそこで食べて、それから〜」みたいな視点が外的視点です。

立体感のあるサウンドが、より内的な作品世界へと誘ってくれるような感覚。

とはいえ僕も人間ですし、ずっと作品の中に入り込む程の集中力はありません。
どちらかといえば感情移入をすると言うよりは客観的に考察するタイプなので内⇄外を往来していました。
でもその往来が心地良かったりもします。

3.ジェンダーとトゲ

タタラ場では、概して力強い女性像が描かれており、男性が屈しているようなシーンも多く見られました。


ただ、もっと広い視点で見ると、外から来た侍などは女性のことを「オンナ」と呼んでいたりすることもありました。なんか、女っていう言い方、少し男尊女卑的なトゲを感じるので個人的にはあんまり使いたくないなと思いました。ただ、その人が軽蔑の意識があって女と呼んでいるのかはわかりません。必ずしも繋がるとは言い切れないので。ただ自分は個人として言葉のトゲを感じました。

名前がわかったら名前で呼べばいいだろうけど、わからないにしても、「あなた」とか「女性」とか、もう少し品格のある言葉選びはあるのではないかと思います。更には、日本語は主語が消失していても伝えることはできるので、そもそも人称を使わないというコミュニケーション手段もあります。
まあ、女性は「性」というなんとも繊細で扱いが難しい語彙を含んでいるので賛否両論つけがたいですが。

しかしこれは時代背景のせいなのでしょうか?①「大和との戦に敗れ五百十四年」というセリフ
②鉄砲の伝来(1543年〜)

から推定すると、時は戦国時代の黎明期でしょうか。だとすれば、必ずしも男尊女卑、女尊男卑の二分法では語りきれない内容となりますね。
しかし浅薄かもしれませんが、時代背景的な権威主義的性格は感じました。

4.生命と理性、憎悪と殺戮と悲痛な叫び

自然の描写がジブリの一つの特徴だとは思いますが、本作品からは格段と生命の畏敬の念を感じました。
大きな理由は、作品内では人間以外も言語を持っているので、現実では聴くことのできない生物の気持ちが顕在化されているように感じました。実際に宮崎駿監督は、「森の不思議な感じや気配のようなものを形にしたかった」と仰っていたそうです。彼は恐らく鋭い感性で生命に内在するオーラを感じ取ることができ、作品という形でそのオーラを、ある種、即物化したんだと思います。

「もし森に、動物に、声があったらこんな感じなのかな」とイメージさせられるものでした。

現実世界においても、私たち人間は、産業の発達のため、資本主義社会の促進のために、森を切り開き都市を作ってきました。

そんな中、声もなく脅かされて行く森林や生命。
作品では、生命が、動物がそこに理性という独自の命を宿し、悲痛に怒り、時に叫ぶ。
怒っている事柄をマクロ的に捉えると現実も作品も類似する構造です、作品では動物は理性を持ち、言語を持つ、監督はキャラクターに話させることで、言わば劇中で「脅かされる生命たちの代弁」を行ったとも言えるのではないでしょうか。
そのような、作品の内奥に潜む意思表明を感じました。


5.合理性と不可逆的なア・プリオリ的自然
-現代社会のパラレル-

(※ア・プリオリ: 経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念。)
(※不可逆的: 元に戻すことができない性質があること)
(※パラレル:並列関係にあるもの、概念)

①可逆性の齟齬

(※齟齬(そご):意見や事柄が、くいちがって、合わないこと。くいちがい。)

作品内には、人間(エボシたち)がシシガミの森を侵略し、破壊するという描写があります。エボシたちは、タタラ場のため、人間の発展のために無残にも森を壊していきます。しかし、作品のラストでシシガミの不思議な力で森が再生されるシーンがあります。
(以下セリフ↓)

甲六「すげぇ...シシ神は花さかじじいだったんだぁ...」
アシタカ「サン...サン。見てごらん」
サン「よみがえってもここはもうシシ神の森じゃない!! シシ神さまは死んでしまった」

ここですね。特にここのサンの一言、非常に示唆的です。何を示しているかというと、自然の不可逆性です。
確かに、人為的に壊されてしまった殺伐としたシシガミの森が、解き放たれしシシガミの力で再生され、緑生茂る森が再構築されたように捉えることもできます。
しかしサンの言う通り、もう以前の森は失われてしまったのです。悲しいかな、同じ自然は二度と再生できないのです。

②現代社会のパラレル -失ってから気付く人類-

それでは何がどう失われたのか、私たちの住む現実世界で考えましょう。
(現実ではシシガミという不思議な力で再生することは出来ないので)微妙にニュアンスは異なると思いますが、これは現実にも置き換えられます。私たちの住む現実世界でも、やはり自然は、生命は不可逆的だと思います。

人間は、人間のため、産業のため、資本主義のために自然を切り開き、都市を、住居を、文明を作りました。何も自然を嫌悪していたわけではなく、合理性を考えたときにやむを得ず、加速する資本主義の渦中でそうせざるをえなかっと言ったところでしょうか。

さあ、資本主義の名の下に立派な社会を作り上げた人類ですが、現在は何をしているか。
「木を植えましょう」「自然を大切に」などと声を上げ、一心不乱に合理性を追求した結果として自らがいつのまにか破壊してしまっていたものを、再び取り戻そうとしているのです。よく耳にしますよね、こうした活動。この活動それ自体は大変素晴らしいことですし、尊敬しています。

しかし、個々ではなく人類という大きな主体で考えると、随分と手遅れなことをしているようにも捉えられます。そこにはもう従来の自然は戻ってきません。確かに人によって植えられた苗木は、間違いなく生命の形をしています。個々ではそれは生命を増加させているように見えます。しかし全体図を見ると、綺麗に整列された街の木々、数式の用に、はたまたパズルのように並んでいる芝生たち、確かに癒されますし生命の形をしています。ただ、生命の形をしているからといって昔と今は同義の自然だというのは到底無理でしょう。どうやったってア・ポステリオリ的な人為でア・プリオリな自然状態は実現できません。

(※ア・ポステリオリ:経験的に獲得されるもの。)

果たして昔のありのままに、無造作に、自然が真に自然として存在していたときは戻ってくるでしょうか?

③宮崎駿監督が示唆する合理性への危惧

監督の言う「森がただの植物の集まりではなくて、森が精神的な意味も持っていた頃のイメージ」の現在における残余はどれほどでしょうか?

答えはもう明白ですね。自然は総体的に見れば見るほど不可逆的であって人為的な産物には限界があります。本作品を通じて、自然を自然なまま残すことがいかに難しいことなのか考えさせられます。即物的な形はある程度再生できるかもしれないが、観念の総体としての自然は二度と戻ってこない、サンはそのやり切れない思いを叫んでいるんだと思いました。

監督の宮崎駿はもちろんそんな社会的状況をわかっていて、危惧だってしていたと思います。
森には、森を自然な森たらしめている不思議なオーラがあって、宮崎駿はそれが失われていくところに悲しさ、はたまた怒りすら覚えていたのではなかろうか。そんな気がします。

生命が合理性に殺戮されていくのはわかっている。わかっているけどただ茫然としているわけにもいかない。わかっているけど叫ばずにはいられない。そんな悲痛なメッセージを暗に示しているのではないでしょうか。


6.近代合理主義の表象としてのエボシ

この近代の合理的人間の姿のパラレルとして考えられるのがまさしく作品中のエボシです。彼女もまた、合理性をもとに人間のため、文明のために森を開墾していきます。彼女もただ破壊しているだけではないので、ただの悪者ではないです。ただ、悪い人ではないという捉え方をしても、自然の目線に立つならば完全に敵です。悪くなくても欠点はあるのです。

ここで考えさせられるのが、宮崎駿監督が、「当初はこのエボシを殺す設定を構想していた」ということ。
しかし結果的には殺されませんでした。監督は「死なすには行き過ぎで、でもただ生かすのも疑問だった」と残しています。
ここからも、生命を無慈悲に殺戮する合理的姿勢に対する、間接的な批判精神を感じます。資本主義は止まらない、それどころか加速する。わかっている。
ピュアな自然は減少していく、わかっている。
合理的主義的な考えだけでは生命は成立し得ない!という怒り。
そんな悲痛な魂の叫びが感じられました。

しかしそれでいてエボシを殺すには至っていない。これが何を示すのか。結論は、合理性も必要悪だということだと思います。合理主義なくして産業の発達はあり得ませんでした。それを認識しつつも尚、破壊に対して悲しみと危機感を抱かざるを得なかったのでしょう。

7.ウィトゲンシュタインの言語ゲーム的観点から考察する正義の形


①正義の主観と客観

最後に、物語全体を通して構造的に思ったことを述べていきます。
この作品、敵vs味方みたいな単純な対決じゃなくて、それぞれが、それぞれの正義の名の下にぶつかり合っているんです。
各視点に立てば、アシタカはもちろん、サンも、もののけも、エボシでさえも一つの正義の形をしています。
ここで難しくなってくるのが、正義の主観/客観問題です。

人はそれぞれの正義をもっていて、どれもその人なりのそれぞれの正しさを持っていて、恐らくその正しさを説明するそれぞれの論理がある。無意識か有意識はさておき。
つまりは正義というものは主観的なものであり、それ故に客観的な絶対正義などなく、平和的な完全統一は不可能ともいえるでしょう。
そのようにもどかしく、正義と正義が複雑に衝突し合う物語といったところだろうか。

②後期ウィトゲンシュタイン哲学、言語ゲームから考える水平的和解の難儀さ

さて、みんなそれぞれ正しい。そうは言っても解決には繋がらない。
ここで一つ哲学を思い出す。
ウィトゲンシュタイン 後期、「哲学探究」の、「言語ゲーム」思想です。

言語ゲームを描写すると長くなってしまうので簡単に言えば、「人がある文化圏で無意識に形成している暗黙のルールのようなもの。」といったところでしょうか。

そして言語ゲームは別の言語ゲームと、簡単に共存できないのであります。

その世界にはそのルールがあります。各家庭に各家庭のルールがあるように。

日本には日本の言語ゲーム、スペインにはスペインの言語ゲーム、会社には会社の言語ゲーム、〇〇小学校には〇〇小学校の言語ゲーム。大小はあれど、その無数の言語ゲームが世界なんです。

さあ、何を言っているのか、ここでポイントなのは異なる言語ゲーム同士は簡単に分かり合えないということ。

もののけ姫にも、アシタカを取り巻く言語ゲーム、村の言語ゲーム、サムライの言語ゲーム、シシガミの森の言語ゲームなど様々な言語ゲーム(無意識のルールや価値観)がある。
共存できるだろうか?無理です。
まさしく国際連盟が失敗したのと同じように。

だから彼らは戦っている、いや、戦わざるを得なかったのです。

8.グローバリズムに対峙する私たちに向けたメッセージ

ラストに印象的なセリフがあります。

「それでもいい。サンは森でわたしはタタラ場でくらそう。共に生きよう。会いにくいよ。ヤックルに乗って」
アシタカはそう残した。

例えば無宗教者がキリストの教の行為を真に理解できないように、簡単には自分が属していない言語ゲームは理解できません。

その上で、一緒に住むのではなく、違うコミュニティであることを理解した上でそれでも共に生きようとする姿。この「共に」の意味が実に哲学的ですが、場所は違えど、この世界の中で、同じ時が流れる空間の中において共に、意思とパトスを共有するという意味での共存なのではないでしょうか。

これこそ、グローバル化した現在の世界で目指すべき視座なのではなかろうかと。
さすがアシタカ、達観しています..

昨今は新型コロナウイルスで人々が直接対面することは難しくなっています。
近くならまだしも、遠くの人、はたまた海外の人はどうしても会うことはできません。しかし今はSNSやビデオ通話ツールを使ってコミュニケーションを取れます。

対面するのはたまにだと思います。しかしそれでも私たちは同じ世界を共有しているのです。宗教や国籍が違っていても、同じところに住まなくても、そこで関係は終わりではありません。それでもしたたかに、相互に理解し合い共生することは可能です。

物理から心の連結へとシフトする過渡期において、我々の精神のあり方を今一度問い直すような作品でした。

日本的な世界を描いた作品ですが、類推すると現代の我々の地球にとって大切なメッセージを示しているようにも捉えられました。

ここまで読んで頂き、ありがとうございました。


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