よしだゆう

よしだゆう

最近の記事

大事な人を大事にするために

自分へのリマインダー📣 大事にしたい!っていう言葉 何気ない一言だけど 自分の身に沁み沁みにしておきたいと ここ数年思いながら生きてます ここでの大事な人は、恋愛のみならず家族、友人、先生、生き物、人生における大切な存在全般に対して同じことを思っていて 「大事な人を大事にする」って結構体力と忍耐がいるとわたしは思っています わたしは少なくとも 大事にすることがとても下手くそだ、 という自覚がある 伸びしろです 人によくすることはある程度、 生きるマナーという言葉で容易

    • 幸せの絶頂で悲しみを感じる

      ああこの時間は終わってしまうのだな、 今のこの時間を味わってしまったら 思い出すころ、苦しくなるのかもしれない そんなことが、しあわせな時、 そんな考えがよぎることはないだろうか 幸せと感じるとき、嬉しい時、あたたかさに触れた時の涙は 嬉し泣きという 悲しい涙はしょっぱいというけれど 嬉しい時もしょっぱい きっと嬉しいの中に悲しいという感情の成分も入っている しょっぱい幸せで 傷跡が染みて 痛くて痛くてこれが幸せか、と実感する しょっぱい今は とても幸せだ

      • 手放すがむずかしいのです

        最近ふと思ったことです 空の色が絶妙だった時のふつふつとした感じ、 前を横切るお母さんに抱かれた赤ちゃんの後ろ髪がぽやぽやと風に揺られていたのをみた時、 わたしは書かなきゃ!という衝動に駆られます 言葉にして、その光景をできる限りその時感じたまま言葉の中に冷凍保存させておきたい!また取り出したい、感じたい、 日記にそんな瞬間をたくさん詰め込んでおきたい、と。 悲しさや淡い感情をもった記憶や、悲劇のヒロインのような夜道の気持ちも、 書き留める、書き留める、書き留める、、

        • あのう、手紙の良さ伝えてもいいですか?

          わたしをよく知る人は わたしがよく手紙、手紙、って言っているのを知っていると思います そんな手紙オタクが •••手紙の良さ伝えてもいいですか? 良さなんて ここに書き切れたことではないのですがつらつらと、 手紙に書く文字って人によってすごく特徴があります、 それで犯人特定できるくらいなので本当に手書きの文字ってその人のくせがでます パッとみて読みやすい〜!ってなることもあれば ん?これは “し”に点なのか、 “い”なのか、 頭を捻ってみても解読できないなんてこともある

        大事な人を大事にするために

          昔も今も電車の手すりでポールダンスをしたい

          電車の手すりでポールダンスをしたら 渋谷中のゴミを集めるまでやり続けたら 歩道の横の白線からはみ出したらほんとに死んじゃうのなら どうなるのだろう なにが起こるのだろうか ぺんぺん草をみんなが持って鳴らしたら どれくらいの音になるのだろう 急に世界中の時計が反対に回り出すようになったら大人たちはどうするのだろう 想像するとピリっとしてぞわぞわする こんなことをふと思う昔と今 昔も今も電車の手すりでポールダンスをしたい まずはポールダンスを知らなくてはならない

          昔も今も電車の手すりでポールダンスをしたい

          美術館の作品は、ベッドの中で完成する

          わたしは現代美術館によくいく 美術館で見たもの、感じたもの、 その時ふむふむと思っているものは、 私にとっては 要素(elements)を拾い集めている時間に過ぎない なんならじっくりみていたら想像が飛び散りはじめて、笑けてくる え、なんだ、ただの棒じゃないか ただの線じゃないか とすんっと後ろに引く感覚もある その作品に関心を向けている自分を 外側から少し恥じてしまうような そんな心と共に見ている でもそんな「我に帰ってしまった」自分の視点もこの場では楽しんでい

          美術館の作品は、ベッドの中で完成する

          反動化と優しさ

          (去年の夏になる手前に書いてたもの) 人のある一面を 受け入れられなかったり レッテルを貼ってみたり そんな気持ちを持つのに 自分がすれば許せちゃうのってなんで コロナになった人を見て “ほらみろ注意が足りないからだ”とみるのに 自分がなればそのあとは “なかなか流行っているしな”という 優しく、なったのだろうか “あの人不倫したんだって…”というのに 彼女のいるあの子を好きになって 彼氏のいるあの人をすきになって そのあとは “想うのは止められないし、自由だよ”って

          反動化と優しさ

          再生するわたし

          いろんな感情がある自分っていうものを なんかことばにしたくなった時にざーって 書いたもの 今日1日でいろんなわたしがいた 運動するわたし 燃えるわたし 楽しいわたし 一歩が出ないわたし ひんやりわたし 沈むわたし もうどうでもいい横になりたいわたし それでもごそごそ出て行って 働くわたし もくもくと時間が経てば 静かなわたし 穏やかなわたし 勉強が捗るわたし できるわたし それでもぱたぱた戻っては 眠れない、わたし 深く、わたし 感情は その時持ってるものが常に本物だって

          再生するわたし

          自分の中の思いを聴く、その練習

          自分の中に安心する居場所をつくりたいと そう強く思って過ごさせていただいていた一年 Love myself !!ってことばはなんかピンとこなかったりすることが多くて でもふと去年思ったこと、 外に安心する場所を求めようとしたり 人の中に自分の居場所を見出してりしていると 時々とても苦しくなる “人の役に立つこと”を価値基準に 自分の存在意義を見出し続けてきたら なんだかふと、つまづいた 人はそれぞれ流動的だから 時々その流れに置いてかれたと思うと 同時に自分の存在価値も一

          自分の中の思いを聴く、その練習

          自分のため、そして原動力

          自分は将来何がしたいのか なんてわからず悶々としてる感情を 寝ても起きてもコーヒー飲んでも 後ろに紐で繋いで引きずってるような大学3年の日々ですが わたしの原動力ここにあり なメモをここに残してみたいです🗒️ ※今回のノートは伝える、伝わる気ほぼゼロのメモです、書き殴っただけ(手は動かしてないから打ち殴ったというのかな) だから読んでも “???”となるかもしれません わたしができることは自分のためのこと、 自分を救うための行動 それが時として人を打つ、そんなこともあり、

          自分のため、そして原動力

          生き生きとした姿って?

          以下、長期でこどもキャンプのスタッフをやったこと、 ざっくりとした全体像にしかすぎないけれど 振り返ってHP用に記した文章を記録として 気づきとして、成長として、noteにも、  大学三年の夏、コロナ禍を通じてこどもたちが五感を使って遊んだり、学んだりする機会が一段と減っていることへの問題意識と、「子どもたちの生き生きした姿はどうやって生まれるのか、引き出せるのか」という抽象的な自身の問いのヒントを得るべく、長期ボランティアに参加しました。  子どもたちの安全を守りつつ一

          生き生きとした姿って?

          子どもたちへの罪悪感と愛情について

          ネパールでのワークショップを通して向き合った事のひとつをここに記しておこうかなと思います 記録です ネパールに来てこういうように思い、悩むということは予想もしていなかったからこそ 大事にしていたいなと思うこと 書いたら長くなってしまいました、 自分がこの感覚を忘れないためにも (忘れるような経験じゃないけど) 書きます ネパールにあるひとつの女の子だけの孤児院に 10日間のワークショップを一緒につくりに行きました 特に沢山関わり合っていったのが6歳のちびっこたち ネパール

          子どもたちへの罪悪感と愛情について

          ことばあそび

          わたしはことばが好きです いくらでもつくれる、自由なもの 「伝わる、伝える」という目的や要素を加えればことばは自由だ!とは言い切れないかもしれませんが でもそれでもことば自体は自由です 最近よく使ってるのは「緊張しいしい」 ぐるぐるとか、わくわくとか、ぴょこぴょことか チューチュートレインとか 繰り返してるのなんかいいな、 ただそれだけ わたし緊張しいなんです。 っていうより緊張しいしいっていうとなんだか 堅くないというか重くないというか そのことばに込める感情と愉快な感

          ことばあそび

          なんか嫌、は絶好のチャンス…(?)

          少し最近紐が解けてきたような自分自身の考えがひとつあったのでここに書いてみます、 わたしはこれまで自分は人を嫌うことがない、と自分自身思ってたんです 嫌な人って聞いた時になんだかどこかピンとこなくてこないどころかもやもやして おいおいそれは偽善だよ でもこんなこと思ったり言ったしてるとそんな声も頭によぎるんです、そりゃ当たり前です 嫌いとか無理、そんな感じの感覚を持ったことがないなんて偽善にみえます 天使を演じてるみたいにもみえてきます そんなんだと詐欺に引っかかるよ

          なんか嫌、は絶好のチャンス…(?)

          どっちの方が幸せか、の答え(人生今のところの)

          一つ最近自分の考え方が動いたことを残しておこうかなと思います✏️ わたしはどれくらいの時間かわかりませんが幸せってなんだろうとと考えている時に同時に “物を持つこと、お金を持つことで得る幸せと、 経験や、景色から得る幸せとどちらがより幸せになれるのか”を考えていました 幸せになるためにはどっちがいいの?と そしてわたしは本当は経験から得る幸せの方が幸せになれると思っていました 理由としてはものは消費されてしまうし、一時期の幸せは得てもその幸せは長くは続かない、お金も同じ、

          どっちの方が幸せか、の答え(人生今のところの)

          生まれて20年経ったみたいです

          10代 自分を”好きになる”と 日々がうまくいくと 苦しく思ってる人のことが 考えられなくなってしまうかもっていう不安がずっとあって 誰かの気持ちに本気で向き合えることが 誰かの笑顔を作ることが任務だって わたしが今まで認めてた自分を自分たらしめるいいところだったから 人生楽しい!って感じても 自分幸せ!って時も なんかこんな気持ちにならせてくれる幸せな 環境を独り占めしてるのが申し訳なくて 嬉し涙と一緒に切ない涙が出るっていう 誰かを好き勝手な思いで傷つけてそんな自分

          生まれて20年経ったみたいです