生き生きとした姿って?
以下、長期でこどもキャンプのスタッフをやったこと、
ざっくりとした全体像にしかすぎないけれど
振り返ってHP用に記した文章を記録として
気づきとして、成長として、noteにも、
大学三年の夏、コロナ禍を通じてこどもたちが五感を使って遊んだり、学んだりする機会が一段と減っていることへの問題意識と、「子どもたちの生き生きした姿はどうやって生まれるのか、引き出せるのか」という抽象的な自身の問いのヒントを得るべく、長期ボランティアに参加しました。
子どもたちの安全を守りつつ一緒にこのキャンプを楽しみたい、そんな意気込みを持って参加しましたが、実際に山賊キャンプの現場に入ると、もうそれは想像を遥かに超える困難がたくさん待ち受けていました。水汲みから火おこし、子供への呼びかけ、降り注ぐ直射日光、これは修行だ!と何度も思いました(笑)。それでも修行に来ただけあって本当に多くのことに気づき、新しくできることも増えたと私は確かに感じます。
初めは安全面での心配な気持ちからあらゆる子どもたちの突拍子のない行動にハラハラすることも多く、自分はできる!という自己効力感につながる第一歩である「やってみたい」という子ども達の挑戦を支えることがそう簡単でないことに気付かされました。また、呼びかけた注意事項や話を聞いてくれない、そんな焦りや疲れが余計子供達と「一緒に楽しむ」ということから自分自身を引き離していきました。このままではダメだ!と思うその中で目にしたのは伝えるべきことを伝えながら子どもたちを話に惹きつける長老の姿でした。
相談員とはまた違う全体をみるという役割を持つ本部の中で自分は気がつくと全体をまとめることに必死になっていました。しかしそのような一方的な思いでは上手くいくはずもなく、子どもと気持ちや感覚をそろえ、その上で話すことが大事だと気づきました。実際に目の前にいる子どもたちの雰囲気も一瞬一瞬で変化していくからこそ、その変化に対応していく方法を試行錯誤しながら学ぶことができました。
またその他にも自分が火おこしやナタ使いに四苦八苦する姿を見て子どもたちから「むろ、すごい上手だよ!」と声をかけてもらったり、「むろも頑張っているから私も!」と動き始める子どもたちもいてその姿はとても温かく印象的でした。
「大人だから」と言って我慢する、のでも
「大人だから」なんでもできる姿を見せるのでもない。
私も私として等身大で挑戦する。
子どもが物事に向き合う姿で私が成長し、私の向き合う姿で子どもが挑戦してくれる、その相互の関係性を初めて実感しました。
最後にこのキャンプを通して「こどもたちが生き生きする≠ずっと笑っている」ではないと気づきました。
初め、私がイメージする子どもたちが生き生きする姿は勝手に「楽しそうな笑顔を作っている姿」としてどこか連想していましたが、全力で何かをやってみる、向き合ってみる、その時の緊張感や不安の表情、達成した時の笑顔やうまくいかずに壁にぶち当たった時の悔し涙、キャンプ中にみせたその全部が子どもたち一人一人を生き生きさせていました。
子どもにとって、
そして子どもに限らずとも、
生き生きとした姿は何かに挑戦した時、
そしてそれが失敗したとしてももう一度考えてやってみる、
そのような挑戦と立て直す力を発揮できる場所が保障された時に見られるのではないだろうか、と思えることができた大切な時間でした。
ナタの使い方を学んだり、子どもたちがすっと耳を傾けやすい声の音域などを体感で身につけたりと、この長期ボランティアの経験は自分の将来を思考する中で大きな前向きな力となりました。
たくさん支えてくれ、美味しい食事と色んな話を共にしてくださったスタッフの皆様、山賊の子どもたちと相談員、泰阜村の方々、本当にありがとうございました!
ちなみにあだ名はむろでした
理由は簡単
ムロツヨシさんをかれこれ9年好きだからです
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