手放すがむずかしいのです
最近ふと思ったことです
空の色が絶妙だった時のふつふつとした感じ、
前を横切るお母さんに抱かれた赤ちゃんの後ろ髪がぽやぽやと風に揺られていたのをみた時、
わたしは書かなきゃ!という衝動に駆られます
言葉にして、その光景をできる限りその時感じたまま言葉の中に冷凍保存させておきたい!また取り出したい、感じたい、
日記にそんな瞬間をたくさん詰め込んでおきたい、と。
悲しさや淡い感情をもった記憶や、悲劇のヒロインのような夜道の気持ちも、
書き留める、書き留める、書き留める、、、
大抵は湧き過ぎてこぼれていて、
間に合わなかった、書けなかった、、、という苦い思いをしているわけなのですが、
この焦りは感覚的には
朝起きた時に残っている夢から引き連れてきた感覚が時間と共によくわからなくなっていくことに対して、抗って争って
誰かにこのドキドキしてる胸の内を説明するまでは消えないで!と思う時と似ている
でも同時に思ったんです
なんでそんなにしたためることにこだわっているのだろう
なんでそんなに忘れることを恐れているんだろう
何でもかんでも押し花みたいに心と心の間に一生懸命挟み込みたいと思うんだろう
ある時、とても心地よい風のふく友達に
ごうまんだね、と言われたことがあります
傲慢ではなく、「ごうまん印」をもらいました
そうなのです、わたしは多分とてもごうまんで、あれもこれも離れていくことにとても臆病で
手放すことが不得意なんです
だから、感じたものも、目に見えないものですらコレクトしたくなる、手にいっぱいに
でも一つ一つが敏感な繊細なものでも、
重ねすぎていくと見つけにくく、鈍感になってしまっていることも感じます
これは目の前のものを写真撮って忘れないようにしなくちゃ!ここでしか映らない景色を!と必死にカメラを向けて撮った途端に
カメラフォルダが私に取って代わって
本当にわたしが覚えているものがなくなってしまったような感覚と一緒だなぁと
鈍くなっていることに気づくんです
忘れないこと、立ち止まらないこと、手放さないことに一生懸命で
忘れていくことにも、覚えていることにも鈍感になる
理想においてもそうです
あたまの中にたくさんの理想を集めすぎて、
自分のほんとうの理想がわからない
白くあれ!という広告に反発しても隙間から入り込んできた白い肌になりたいというような半強制的な理想や、毎朝早起きをしてスムージーを飲める余裕のある理想、土に触れていたいという誰にも迷惑をかけない理想、いろんなかたちの理想があたまの中をせめぎ合っているために
どれにもなれずに、どれになりたいかもわからずに中途半端に鈍さを感じています
「さあ、それなら手放していこう
断捨離の時間です」
そしてこれがむずかしいです
その時は手放せたと思っても
ちょくちょく蘇ってくるのが厄介です
心の波と一緒に
一回ガラスのボトルに入れて海に流して
誰か宛に投げておいたものが、
波と一緒に足元に流れ着いてくるみたいに
それをまた放り投げる時にはもうなんか疲れちゃっていて、拾って帰ってしまう
手放して、隙間をつくることで
新しいものに出会えることとわかっているから
その瞬間を想像してワクワクするのに
持っているから取れないという
それを理由にまだまだ大荷物パッキングの自分に気付きながら、
また今わたしはなにが手放せるのかしら、と
ふつふつ考えて、手放すものを足元に探しながら
両手にいっぱいに、右脇には日記を抱えて、
まだまだ歩いています
ものの断捨離はできるようになってきました
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