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西洋における「ますらおぶり」の否定 勤労カルヴィニズム 永続中世論

 

現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について 
第一章 人間と宗教と啓蒙の歴史


西洋における「ますらおぶり」の否定 勤労カルヴィニズム 永続中世論

 東洋に「ますらおぶり」を拒む地域があれば、西洋にも「ますらおぶり」を拒む地域は存在している。不寛容を極限までエスカレートさせたナチスドイツは、間違いなくこの最たる例だろう。人類史における唯一の限りなく絶対的に害なる存在であるナチスと、それを産み出したゲルマン民族の特異性について、我々は徹底的なまでに考察する必要があるだろう。人間には、絶対的な正当性を定義することは出来ないと筆者は考えているが、ナチスにならないことを目指すのは、存外に容易なことであるかも知れない。

本著には、過激な表現が大量に用いられているが、これを読んで不快に思った読者の方は、ナチスに虐げられた一九三〇年代のユダヤ人が味わった苦痛を一定には理解出来るようになるだろう。ドイツ人への激しい批判を筆者は申し訳ないとは思っているが、困窮者の心情を知ることこそが公共判断を行うためには絶対に必要となる。プロイセンのルネサンス理念を否定してナチズムに走ることは二度と繰り返してはならないし、ナチズムとその他の問題を平等に扱うことは不可能なことだ。

ナチスの諸々の政策は、ドイツ人達に支持されていたという点で歴史的な特異性を持っている。民間からのナチスへの協力も積極的であったため、ナチスを選んだドイツ人も共犯であるとはよく言われている。

実は、ナチズムのような全体主義思想は一次大戦以降に勃発的にドイツに誕生したものではない。ナチス以前からも、ドイツでは一定には不寛容な権威主義の伝統が存在していて、ナチスの世界観は当時のドイツ人の価値観を反映しただけに過ぎないのだ。事実として、プロテスタントを創始したルターというドイツ人は、「奴隷意思論」という著書で人間の自由意思の価値を徹底的に否定していた。

ルネサンスの精神はこうした奴隷意思論の対極の哲学であって、「人間主義」と呼ばれることもある。一六世紀とは人間の自由な精神を尊重するルネサンス運動がヨーロッパで勃興していた時代であるが、同時期のドイツではこのような権威主義が崇められていたのだ。「哲学は神学の端女」という言葉がヨーロッパには存在するが、ドイツにおいてはこの言葉が風説以上の実体であったのだろう。

この時代には、カトリックの司祭のエラスムスが、ルターに反論して「自由意思論」という書を叙述していた。この書物が本当に人間の自由意思を尊重するものであったかは定かではないし、ガリレオ裁判などを起こしたバチカンが賢かったとは言えない。

だが、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロを後援するなど、バチカンがルネサンス運動と完全に対立的であったというわけではなく、非人道的なカトリックと進歩的なプロテスタントという対立構造は、歴史の実像から遠いものだ。むしろ、中世を生み出したカトリックの権威主義をより濃縮して、人間の精神を永久に暗黒時代に閉じ込めるために原理主義化された、「永続中世論」がプロテスタントであると言っても過言ではない。

分派が多いプロテスタントでは、全てのセクトが奴隷意思論を唱えているということはなく、エラスムス的な理論の派閥も一定には存在してはいた上に、ジョン・ブラウンのような奴隷制度に反対した人士も存在していた。英国国教会は一般的にはプロテスタントに分類されるが、実はカトリックに近い理論を唱えており、実質的にはプロテスタントではない。逆に、ドイツやアメリカのカトリック教会はプロテスタント的な性質が強いとはよく言われる。

ルターは奴隷意思論を唱えるばかりか、「ユダヤ人と彼らの嘘について」という叙述を残すほどの強固な反ユダヤ主義者でもあって、彼はなんとドイツ人こそが神に選ばれた民族であるという言説を唱えてもいた。プロテスタントという宗教は、人間は権威の奴隷であるべきであって、ユダヤ人を弾圧・殺害しろという言説を唱えたドイツ人によって造られたものであるのだ。

この宗教による政教一致が起こるならば、ナチスの世界が誕生することにしか成り得ない。キリスト教的観念とゲルマン的蒙昧のアウフヘーベンがプロテスタントであると考えれば、ヨーロッパの歴史はとにかく分かりやすくなる。プロテスタントはその発生した当初から、根拠がない選民思想を虚構的な観念によって正当化しようとするカルト宗教であったという事実を認知出来なければ、現代まで続く歴史の構造はまるで見えてこない。この宗教は、民主主義を否定して全体主義を称揚する性質を持っていることは必然でしかないのだ。

ルターはどこまでも観念的な信仰を推奨し、「信仰のみ、聖書のみ、神のみ」という「排除の論理」を唱え、実体的善行は無意味であって、神を信仰する心性のみに意味が存在すると訴えていた。彼の実体を無視した唯心論は、実体的な隣人愛を否定する観念的な自己愛なのではないかと誰もが考えることであるが、デンマークのキルケゴールは実際にこの批判を行っていた。ルターの唯心論は「実を捨てて名を取る」倒錯であって、観念によって実体を拒絶するヴァーチャリズムでしかなかろう。

ドイツには、ドイツロマン主義と呼ばれる有名な文化的伝統が存在しているが、これもまた唯心論的で現実実体を軽視するところに特徴がある。この夢遊病的な伝統は、幼稚な自意識以上のものではなく、これは文化というよりも単なるサブカルチャーでしかない。ドイツロマン主義とプロテスタントの共通性を見る限り、ドイツは実体を広く観察して意思決定を考えることよりも、屁理屈を捏ねて観念的な自己満足ばかりを追求していると言えるだろう。

元々のロマン主義とは、ローマの末期の非貴族階級の堕落した風習に語源があるが、それはつまり「パンとサーカス」の後者を示すものであった。これは、理想主義から最も遠い妄想主義であって、人間の政治意識を破壊して愚民化を成立させるためのものに過ぎない。ギリシャ・ローマの哲学を見直すルネサンス理念は、蒙昧なロマン主義から最も遠い位置に存在していると言っても問題はない。

「パンとサーカス」は、愚民化政策を示す言葉として有名であるが、「腹が減っては戦は出来ぬ」ということは事実であるのだから、問題はパンという食糧ではなくてサーカスという煽動の方である。見栄では腹を満たすことは出来ぬし、妄想によって社会問題を解決することは不可能なのだ。アメリカンドリームやドイツロマン主義といった文化的貧困は、近代啓蒙思想への反動であって、つまりそれは政治哲学や科学技術を否定する幼児的蒙昧と断言しても、何ら問題がないだろう。

実は、プロテスタントの創始者には、カルヴァンというルター以上に危険な教祖も存在している。フランスから追放されたこの男が唱えた宗教理論は、誰が救われて誰が救われないかを含めて全てのことは予め決まっているというものであって、これは「運命予定説」と呼ばれている。

カルヴァンの宗派では、労働によって蓄財出来ることこそが神に選ばれているという証とされて、この理屈には現世利益だけではなくなんと選民思想まで付随している。カトリックの神父達は、「日本人は利己的で現世利益的な宗教観しか持っていない」という批判を唱えることも多いが、実はプロテスタントこそが利己的で現世利益的な宗教観しか持っていないのだ。

この運命予定説は、「勝てば官軍」ならぬ、「勝てば選民」とでも呼ぶべき拝金教である。だが何より、隣人愛の実現のための手段としての労働ではなくて、自己救済のための蓄財を労働の目的としているという点において、これは現代社会的な理論であるとも言えよう。実体のあり方を問わずして権威にどう評価されるかを人間の全てとする点において、この運命予定説は学校の内申書のようなものであり、この理論はやはり現代社会的である。

ルターはバチカンの免罪符を拝金教として否定していたが、実はプロテスタントこそがバチカン以上に拝金主義であって、実際に牧師達が営利主義に走ることもしばしば存在している。プロテスタントとはバチカンの利権を否定したのではなくて、バチカンの利権を奪うための競合他社に過ぎないのだ。

カルヴァンの運命予定説では、ありとあらゆることが既に神が決めた計画の通りに存在していて、誰が救われるか地獄に落ちるかも既に決定されて覆すことが出来ないとされている。キリスト教には何があっても神に抗議するな、という権威を絶対的に疑わない妄信が存在しているが、運命予定説は実体公平性を破壊してでも権威を正当だと信じ込む狂信であるのだ。

運命予定説は、キリスト教の「許す」という価値観を完全に否定するものであって、「悔い改めよ」という姿勢から最も遠いものでもある。説法の内容よりも権威的位階を重んじるプロテスタントは、その実においてキリスト教とは名ばかりのルター・カルヴァン教でしかない。だが、少し考えればわかることであるが、全知全能でありながらも、全ての人間を救わない者程に非合理でろくでなしの屑も存在しないだろう。

この宗教は、権威主義な抑圧を好みながらも、同時に選民思想という見栄張りの優越願望を兼ね備えており、個人利益主義によって最悪の矛盾を成立させているのだ。信者達は、権威と自ら達のみを全肯定し、それ以外を全否定するために生きている。彼等彼女等は、全てのことがらが権威による意思決定によって決められなければいけないという反民主主義的な強迫観念によって、人間の自由である政治的意思決定を絶対的なまでに破壊することしか出来ない。このような我慢の強制から、他者への弾圧と自己陶酔に自閉する狂信者が大量に生まれることは説明不要だろう。

奴隷意思論と運命予定説は、権威の独裁的支配を妄信する観念であって、実体の存在と人間の自由意思を否定する世界観である。これらは、あらゆる理不尽が権威の意思であるとヴァーチャリズムによって正当化するだけの妄信であって、これらを用いればナチスによる虐殺も権威が定めた正当な運命だったことになる。

そのように発言したアメリカの牧師も実際に存在していて、故マケイン上院議員からは徹底的に批判されていた。この牧師は、キリスト教の神はナチスの蛮行を含めたあらゆる陰謀を使って社会を支配するという認識を持っているわけだが、多くのアメリカ人が陰謀論を妄信することには宗教的なバックボーンが存在するのだ。どんな理不尽であろうとも権威を絶対的に肯定し、そして信仰すべきである、という思考停止した立場論こそが彼らの信仰であって、善とは権威を意味する言葉であり、道徳とは権威に従順でそして冷血である心性を意味している。

プロテスタントの全ての宗派が奴隷意思論と運命予定説を信仰しているわけではないが、筆者は本著において奴隷意思論と運命予定説を信仰するプロテスタントの宗派のことを「勤労カルヴィニズム」と呼ぶことにした。英語では正義( Justice )とは公平性という意味であるが、実体的な公平性ではなくて観念的な正当性である善を妄信し、権威の独裁的裁定に従属することを尊ぶ「勤労カルヴィニズム」は、反正義を信仰する宗教だと評価して何も問題がない。

マックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、資本主義社会はカルヴァン派のプロテスタントによって信仰と労働の結合がされた「勤労教」によって発達したと説明した。実は、現代社会における専門家教育への偏重もプロテスタントの天職思想の延長であって、これは一神教における排他的単一性の反映である。単一の解を求めるだけの教育は複合要因を見落とすことになるだけだが、構造認知も問題解決も求めない心性が反映されたものに過ぎない。

この勤労カルヴィニズムにおいて神や聖書、そして教祖という権威は絶対とされるが、権威主義によって自由意思を破壊して思考停止した労働を強制すれば、奴隷労働を正当化することも簡単なことだ。ウェーバーもこの勤労教は人間に対する道徳的脅迫であると批判しているが、彼の死後にはドイツでそれが他のどこよりも激しく実行されることとなった。それ故に、勤労カルヴィニズムの勤労とは、ドイツを意味する言葉でもあると考えて貰って結構であるが、松田優作の金狼とは何ら関係が無い。

常に権威に従い続けなければ死んでしまうか、若しくは死んだ後に最悪の刑に処されるという強迫観念を植え付けることが出来れば、人間を完全に奴隷に貶めることも容易いことだ。観念的な脅迫と幻想的な安心、「騙しと脅し」の組み合わせによって人間の精神を圧迫し続けることが、ナチスの手口であることは言うまでもないだろう。

勤労による蓄財は社会貢献に繋がるという反論もあるかも知れないが、勤労カルヴィニズムにおいては個人利益主義の選民思想が存在しているため、本質的に公共性を志向していない。そして、蓄財したところで消費を行わなければ社会貢献になるはずもないが、勤労カルヴィニズムにおいては清貧で厳格な生活が重んじられ、経済的消費は唾棄されている。

現代社会において、稼いだ金をどう使うかは、公共に反しない限りは個人の自由として最大限に保障されるべき権利であるが、ただ溜めて独占することは社会的功利に反するものだ。そういえば、アメリカの富豪は脱税を好んでいるが、これも勤労カルヴィニズムの蓄財信仰に由来することなのかも知れない。

カトリックにも仕事の成果とそれによる社会貢献を道徳と結びつける性質は存在したが、勤労カルヴィニズムでは蓄財に成功すること自体が宗教と結びつけられた。前者は信仰と隣人愛の実践の結合と言えるのかも知れないが、後者は信仰と個人利益主義の結合であると評価すべきである。

現代社会の大部分の人間活動は、地位と金と身分の独占を目的とするだけのものであるが、その原因は勤労カルヴィニズムであろう。選民の金持ちになって非選民の貧乏人と差別と搾取の対象にすることこそが、勤労カルヴィニズムの目指すところであるのだ。

「時は金なり」という諺は、日本でも有名だろう。この言葉は人間を焦らせて意思決定と時間を見失わせる呪詛でしかなく、国家百年の計を考える政治哲学とは対極的なものである。この呪詛はアメリカで生まれたものであって、時間を惜しんだ労働によって蓄財による選民の証を手に入れなければならないという信仰を示す言葉なのだ。

プロテスタントは政教一致を強硬に目指す性質を持っており、勤労カルヴィニズムは単なる宗教というよりも、神権体制を形成する性質を持った政治的イデオロギーである。実際にカルヴァンは、自らの街で政教一致に基づいた政治を実践し、そして宗教に基づいた虐殺を実行することまでもあった。彼は、予定説によって救われる者は実体的な善行と関係なく既に決まっていると説いていたが、おそらく自らは絶対に救われ許されるという価値観を持っていた故に、こうした虐殺もなんら躊躇いなく行えたのだろう。

他者を否定し、実体を拒絶し、教典観念のみを妄信するカルヴァンは、自らと異なった者を残虐に殺戮することによって、自己が他者よりも優位な権威序列に位置する選民であると確信したかったのかも知れない。こうした心性は隣人愛というよりも隣人害であると評価すべきだが、現代アメリカの分断の根源は斯様なカルト宗教の信仰に起源が存在している。

その実において、あらゆる政治権力は有形力と威迫の具現化である暴力装置に過ぎないが、政治権力が社会契約を無視して恣意的に運用される状態を恐怖政治と呼ぶ。宗教の権威主義は社会契約を容易に破壊するが故に、往々にして政教一致では公共社会は権威に独占支配され、権威による恐怖政治が発生する。宗教権威が権力を独占すれば、法律と刑罰によって社会を治める状態から、脅迫とリンチによって人間を圧迫する人治政治となるだけでしかない。実体的な是非が問われることよりも権威の観念と属人性が優先されれば、どんな神官のペテンであってもこれを正当化することが可能なのだ。

どんな権力行使でも宗教的に正当化出来るならば、宗教的な脅しに騙されて抵抗を試みない相手に対しては無敵になれる。ナチス政権下では、カトリック教徒のシュタウフェンベルク大佐は戦傷によって片腕を失っていても、ヒトラーを爆殺することを試みるほどの「ますらおぶり」を発揮した。

だが、「凡庸な悪人」であるアイヒマンはプロテスタント教徒であったが、これはカトリックと勤労カルヴィニズムの違いを示す一つの証拠であるだろう。エラスムスには「痴愚神礼讃」という著作も存在しているが、ルターの立場は「痴愚民礼讃」であったのかも知れない。

現代の日本人がキリスト教であると認識しているものは、戦後のアメリカによる布教の影響もあって、多くの場合はカトリックよりも勤労カルヴィニズムに近いものだ。プロテスタントはカトリックからすれば正統なキリスト教ではなく、審問にかけるべき異端の一派であるが、本質的にはこれはキリスト教ですらないと言える。

筆者の経験から言っても、カトリックは「一応は許しの宗教」であるが、プロテスタントは「本当の脅しの宗教」であった。「自分は神様を信じているから、どれだけ他者を殴ろうとも騙そうとも絶対に天国に行く」というのが、とあるプロテスタント教徒の心性と言っても過言ではなかった。残念ながら勤労カルヴィニズムの価値観をまとめてしまうならば、本当にこうした思考になる部分があるし、実際にトランプ前大統領はそれを体現していた。

プロテスタントは教典原理主義を取っていて、教典と異なる一切の主張を否定するという攻撃的な性質を持っている。この性質は権威と異なるあらゆる意見を否定して、他人の意思を叩き潰そうとするものでしかない。この価値観は、観念的な難癖の言い掛かりを押し付け合う、アメリカ的なディベート合戦を引き起こす。この権威主義宗教こそが、他者の意見を排除し、自らへの反論を拒絶して、建設的な対話を否定する、アメリカの訴訟社会を成立させているものなのだ。

アメリカンマインドとは、公共意識を否定して、我欲だけを無尽蔵に肯定する幼児的な信仰に過ぎない。これは、実体の在り方も戦略的目的も考えずに、ただ単に折れたら負け、といった権威主義的エゴイズムでしかない。

この心理故にアメリカ人は、他者を自らに服従させるための公共判断からは程遠い主張を繰り返し続ける。この赤ん坊の精神は、己の非を認めたら敗北といった性質であって、相手が悪いかを証明するために嘘を付き、その嘘を肯定するために嘘の上塗りを繰り返すものであって、これは魔女狩りを引き起こすものだ。何ら実体性もロジックも無く、ただ群れて声を大きくするだけのことを、議論と呼ぶことは不可能だろう。

実際に、トランプ前大統領は他者と提携するために実体を持ち出して話し合うのではなくて、対話を否定するために虚構を捏造しつづけることを選んでいた。彼のように自分以外への無関心な人間には、他人の話を聞かないことを信仰しているのだから、会話が成立するわけがない。彼は、他者を騙すこととお金を儲けることは上手かったことは事実であるし、彼の浅ましさもテレビ番組の司会としては面白いものではあるが、それで政治家が務まる程には国際政治というものは甘くはないのだ。

アメリカ社会では、恩を仇で返すことを当然視しているものであって、対話による意思疎通が成立しないが故に、文字で誓約書を書かせてそれを破らせないことを重視している。理念なき個人利益主義や信頼なき「群れ意識」によってでは、公益を重んじる社会契約が機能しないが故に、こうした習慣が仕方なく生まれたのだ。ものを言わなければ悪者にされ、武器を取らなければ殺される、自らと神以外が信用ならず、故に自らで神権政治を行わなければならない、という人間不信がアメリカで民主主義と呼ばれるものの正体だろう。

とはいえ、プロテスタントだけではなくて、カトリックであっても十字軍や異端審問などの攻撃的な行動を行い続けてきたことは事実だ。しかしながら、実はそれらは宗教的な問題というよりも、政治的な問題が先行して宗教は後付けの方便だった部分が存在している。かの有名なスペイン異端審問も、信仰というよりもレコンキスタの泥沼的な戦争の延長によって発生した政治的な問題であった。これはバチカンの腐敗であったが、この腐敗は宗教構造による問題とは異なっている。

スペインの新大陸への対外拡張政策もこのレコンキスタの延長によって発生したものであった。新大陸への拡張政策も王室政府の主導というよりは、傭兵くずれが半ば既成事実的に植民地を作ったものであって、王室は事後追認したものでもあった。

であるが故に、実際に南米を征服したフランシスコ・ピサロは、現地での虐殺を理由にスペイン王室に処刑されてしまったし、コロンブスも同じ罪状で投獄されていた。中米を征服したエルナン・コルテスについては現地での事態が複雑であって、彼は単なる虐殺者とまでは言えない。

実は、スペインによる新大陸の征服は、軍事的な圧力によってだけではなく、現地の反乱勢力の協力によって成立してしまった部分も強い。大航海時代は、銃火器の近代的な運用体系が発明される以前の時代であって、白兵戦で勝負を決する半ばドン・キホーテのような時代であった。であるが故に、中南米のスペインの征服における死因は、病原菌によるものが一番多かったと言われている。

火縄銃の射撃管制を伴った集団運用を開始した織田信長や、榴弾を用いる鋼鉄砲を活用したスウェーデン王のグスタフ・アドルフが、こうした中世的な戦争を終わらせた張本人だ。己で止めを刺さずとも敵を倒せればよいという合理主義が、近代軍の本質である。伝統的に長弓の火矢を好む日本やヴァイキングは、火薬兵器の製造と運用に関して他の文化圏よりも何らかの先見性があったのかも知れない。

そして、織田信長の後継者の豊臣秀吉は物流と工学のエキスパートであり、極めて近代的な思考を持っていたことも付け加えておくことにする。こうした歴史を考えれば、武士という存在は、戦闘以外を知らない戦士というよりも、戦いを熟知した科学技術者であったと言えよう。

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