民主主義社会と民主制権威主義社会 リアリズムとヴァーチャリズム
現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について
序章 科学技術と人間本性
民主主義社会と民主制権威主義社会の違いについて リアリズムとヴァーチャリズム
政治権力というシステムは、公共社会と人間の自由を支えるために絶対不可欠な存在である。
政治権力は人間に作用する統制力であるが、同時に人間が社会契約に基づいて公益のために使いこなす道具でもあると言えよう。
こうした公共権力とは対義的に、宗教権威とは本質的に序列概念であって、支配と被支配の関係を作ることで民主主義社会を破壊する。
もっと言ってしまえば、権威とは本質的に不公平を正当化するものなのだから、これは根本的に不正義であると言っていい。
この権威の支配的力学、支配と被支配の関係性を重んじる価値観が権威主義と呼ばれるものであり、それによって成立する社会が権威主義社会である。
かつて存在した政教一致の神権政治や世襲身分制社会というものは、権威主義社会の典型例であった。
権威主義社会における権威は、人間観・世界観・社会観・善悪といった観念を人間に強制的に刷り込むことで判断の基準を洗脳し、それによって社会と人間の支配を確立する。
だが、権威が人間に刷り込む観念の内容とは、大半の場合において偉い人の言うことを聞け、権威をただ絶対的に肯定しろ、失敗が分かっていても権威の命令を行え、あらゆる責任は下に押し付けろ、という実体を無視した立場的な上下論であって、属人性に基づいた恣意的な観念妄想ばかりだ。
これは人間の思考への抑圧であって、現状変革の否定であるが、何時如何なる世であっても、権威による同調圧力は支配体制を現状維持するためのものに過ぎなかった。
建設的否定と否定のための否定は違うものであって、前者を批判と呼び、後者を弾圧と呼ぶ。
寛容な人間は前者を重んじ、不寛容な権威は前者を否定するために後者に走るが、なんであれど、観察抜きの肯定は観察抜きの弾圧と同じだけに意味がないことだろう。
権威主義社会において、大部分の道徳と呼ばれている観念は、権威の煽動に流されることでしかない。
実体とその先を視ず、実体に何かを創ることを求めさせず、能動的な意思を全て諦めさせ、実体的な成果を放棄して苦痛を狂信するニヒリズムを、権威は人間に対して徹底的に強制する。
このようにして、権威は社会の人間関係を破壊して、それを序列関係に、つまりは権威主義の束縛に変化させるわけだ。
権威主義とは、社会契約を破壊して権威が非権威を搾取することを恒常化するためのものでしかない。権威に対する我慢と譲渡と服従を強制する権威主義は「個の意識」の否定そのものであろう。
丸山真男は、権威に対する従属と上から下への責任転嫁の連鎖をして、「抑圧の委譲」と呼んでいた。
こうした我慢と譲渡と服従は道徳なり美徳なりと虚飾された上で推奨されるが、これらは実用のための能力からは最も遠い。
我慢と譲渡と服従は実体的な機能美というよりも、単に陰鬱なだけの向上心の否定でしかなく、近代的自由、結果の制御や未来の創造を否定するものであって、ナチスが支配する社会を造ることしか出来ない。
耐えることへの信仰は問題解決の否定であって、それは我が身を犠牲にしてでも突破力を撃ち出す覚悟から最も遠い、ネガティブな無力主義に過ぎないのだ。
権威主義に基づいた政治は、人が決めるのではなく権威が決める政治であるが、政治学ではこれは人治主義と呼んでいる。
この人治主義とは、社会にルールが存在するのではなくて、権威自体がルールとなる状態であって、民主主義とは完全に対極的な政治である。
実体的な事実と法律に基づいた刑罰を重んじる法治意識が不全化すれば、民主主義が権威主義に破壊されて、難癖的な脅迫と恣意性に基づいた私刑を重んじる恐怖政治が発生するのだ。
多くの権威主義社会においては、権威による煽動によって「観念の拡大再生産」が発生する。
この「観念の拡大再生産」は権威による思考誘導の連鎖現象であるが、こうした負の洗脳の連鎖が伝統やら文化再生産と呼ばれることも多々ある。
権威主義の観念はまるでウィルスのように人間の脳に寄生して、人間関係を媒介にして増殖し、社会を権威主義が止め処なく溢れる状態に転落させる。
地球の様々な場所で、こうした負の文化再生産によって、抑圧や殺戮が未だに続いているのが世界の有様なのだ。
如何なる時代においても、社会のシステムというものは人間によって構成され、そして運用されてきた。
それ故に、社会のシステムが人間のマインドに影響されることは当然のことでしかない。
つまりは、人間のマインドを掌握すれば、人間の社会システムを間接的に支配することが出来るということである。
このことを例え話で説明するなら、仮に王様が社会を支配していたとしても、その王様を洗脳する神官こそが真の意味での支配者であるということだ。
権威が洗脳によって権力を敵視させ、神官が王様に責任をなすり続けるうちは、人間社会は永久に宗教によって支配され続ける。
誰がやっても神官の代行権力としかならないならば、それは神官の誑かしが全てを決定し続けるだけの社会でしかない。
そして、王様とは本質的に権力を使う存在であって、神官とは権威に仕える存在であるのだから、神官が権力を的確に扱うことなど出来るわけがない。
現代の情報化社会と呼ばれているものは、観念しか認識できなくなった観念脳の人間達が作りあげる観念化社会であって、本質的には妄想化社会と呼ぶべき社会だろう。
実体構造のメカニクスを認知して、それを使いこなす科学技術を忘れた人間は、社会をただ劣化させることしか出来やしない。
とはいえ、現代以前から、唯心論、観念論、形式主義などの実体への無視は存在していたことが歴史的な事実である。
現代の観念化社会とは電気通信技術によって煽動手段が発達し、中世的な観念が社会の隅々にまで浸透することによって生まれたものでしかない。
リアリズム(現実主義)と呼ばれるものは、実体を基盤として重んじて、その上に判断や創造を積み重ねていくという人間の主体性を示す言葉である。
リアリズムとは、単にリアルを観察することではなくて、リアルに基づいた思考と判断を行うことだろう。
筆者は、リアリズムと対照的な観念依存症のことをヴァーチャリズム(虚構主義)と名付けた。
実体を確認することがリアリズムであるが、ヴァーチャリズムとは嘘に共感させる詐術に過ぎない。
この死に至る病は実体構造を無視するか否定するかという性質を持っていて、つまりは「実体からの逃避」であるわけだ。
実体を認識しないことは判断を放棄することであって、即ちこれは「自由からの逃走」であるとも言える。
人間の「個の意識」は、実体とその先を視る「認知への意思」を機能させている。
人間個々人の「認知への意思」とそれに基づいた行動によって、人間の精神と実体世界の間に「機能的な繋がり」が成立する。
「知は力なり」という格言を考えれば、「認知への意思」は、「力への意志」であると言っても過言ではない。
他人の話や権威の観念を妄信させることが権威主義の特徴であるが、情報を受容させるだけの「観念への応答」は「個の意識」を否定して、人間個々人を権威の集団に同化させている。
人間の「個の意識」に基づいた協働を破壊して共同体の分断を起こし、権威への迎合による「群れ意識」を喚起させ、そして集団から追放するいじめを多用することで、権威は人間と社会を支配するのだ。
分断であっても同化であっても、それは分離とは全く別のことだし、ましてや協力とは完全に異なる現象に過ぎない。
リアリズムとは、「個の意識」によって実体を観察する意識のことだ。武器や道具を創り、環境を改造する人間という存在は、現状の実体を改良し続ける存在でもある。
つまり、リアリズムとは現実に基づいた理想を目指す思想であって、これは理想主義であるとも言える。
それが故に、理念を求めない思考はリアリズムと呼べるはずもなく、それは単なるニヒリズムに過ぎない。
そして言うまでもないが、己にしか興味を持たないミーイズムは、実体を認知するためのリアリズムから最も遠いものでしかない。
これを考えると、現実実体の改良を目指さない権威主義や、現実実体を放棄するヴァーチャリズムは、リアリズムに敵対する思想であると言える。
そして、いつの時代でも権威は実体に対する「認知への意思」を弾圧し、「観念への応答」を道徳だと広めることで、権威の観念に煽動されるだけの人間を増やし続けてきた。
中世によく見られる神権政治や世襲身分制度は、権威主義的な立場論が制度化された社会である。
中世では、こうした制度は神が決めたルールであるとして、その理不尽が有耶無耶にされていた。
その上、儒教やプロテスタントにはその教義の中に世襲的な身分制度を成立させるための理論が存在しているが故に、カトリックよりも権威と権力が一体化した神権政治と極めて高い親和性を持っている。
政治学においては、全体主義社会とは権威主義社会がより権威主義的に発展した社会であるとされる。
権威主義社会とは、一つの社会に複数の権威が存在し、それぞれの権威が拮抗しながら社会を寡占的に支配している状態でしかない。
だが、全体主義社会とは権威主義社会におけるある一つの権威の支配力が強まり、他の全ての権威を打倒することで、一つの権威が人間社会を独占し、独裁が成立する社会のことだ。
民主主義国家であっても、一定には政府は国民に監視と統制の圧力を掛けていることは実体的な事実であろう。
だが、国民にも政府に監視と統制の力を掛ける手段が存在していて、選挙は政権に圧力をかけるための手段の一つである。
監視の否定は犯罪の推奨以外の何物でもないが、何よりもそれは政府の犯罪を助長することでしかない。
民主主義社会とは対照的に、全体主義社会は、権威が隷民に対して一方的な監視と統制の圧力を掛けている状態であって、隷民は権威に対して徹底的に無抵抗状態となっている。
こうした社会の構図は、一切の自己主張と反論が許されない子どもと、あらゆる強制を行う毒親の関係性と同じものであると言っても問題はないだろう。
他者を弾圧することにしか興味がない権威が社会を占有することによって、全体主義社会が完成する。
それは家庭のような小さな組織から、会社のような大きな組織、はたまた国家という巨大組織にまで変わることがない原則だ。
こうした権威は自己顕示欲と個人利益のために公共の利益を破綻させることを喜んで選ぶのだから、最終的にその社会は破綻することにしかならない。
中世的な権威主義社会では、異なる権威同士が支配下の人間に異なる形で服従を求めても、指示が機能することがないが故に、人間と社会を効率よく支配することは出来ない。
だが、全体主義社会では、社会の人間の全てを一つの権威に服従させているが故に、人間を権威の直接の支配下に置くことが出来る。
それ故に、人間は権威の指示通りに考え、権威の指示通りに動くこと以外がほぼ不可能な状態となるのだ。
例えを用いるならば、権威主義は無力な「兎」を作り、全体主義は貪欲な積極的支持者の「豚」と権威への追従者である「犬」を作る傾向を持っているということだ。
「犬」は食べるための「兎」や「豚」と違って、権威に忠実な番犬にするための調教を行う必要があって、全体主義社会における教育というものは、「番犬を作るための調教」を意味している。
出来が良かった番犬が「犬」であり、出来が悪かった番犬が「豚」である。もっとも、これは文学的な転喩であって、生物学的な意味を示す言葉ではない。
往々にしてこの「兎」は判断能力の欠如と臆病さ、「豚」は動物的な「欲望」を満たす打算のために権威に隷属している。
だが、「犬」の方は自らが権威となって他人を隷属させたいといった権威主義的な見栄張り、卑屈で浅ましい保身的自意識による自己優越化願望の「野心」に動かされている。
なんにせよ、この「兎」と「豚」と「犬」とは国家公共を考えることはなく、結局は自らの保身とせいぜい家族までの利得のみしか考えない冷血で権威主義的な生物だ。
ニーチェはこうした衆愚のことを畜群と名付けたが、古代人はこうした堕落した人間のことを畜生道と呼んでいた。
人間関係とは、他者の「個の意識」を尊重し、実体的な意思決定と効果的な行動を目的としたものであって、ただ群れることを目的とした動物的なものとは別だ。
理念に基づいた実体的な結果を目的とする人間の協和は、個を殺すだけの空虚な「群れ意識」とは完全に対極的である。
人間の本来の能力である公共を創り、そして未来を創造する力を、畜生道は一切において発揮出来ないのだ。
なんであれ、こうした畜生道は権威が人間関係を「妄信と従属と抑圧」に置き換えるが故に、社会に増え続けているということは確かだろう。
民主主義社会とは、権威に支配されない精神を持った個々人達が、現実を的確に認識し、その上で話し合うことによって公共的な意思決定を行う実体的感性と文化的知性によって成立する。
個々人が適切な権力の運用の仕方を考え、それによって権力が効果的に用いられることが自由であって、これは実体功利性に基づいたものでもあり、それ故に自由と民主主義は併存し得る理念である。
決断意識の放棄は民主主義の否定であって、そうした国家に対して何をも負わないミーイズムの畜生道が、ナチスのような体制に賛同する。彼等彼女等は、実体を鑑みて公共を創ることではなくて、権威に靡き群れに媚び親に許されることしか出来ないのだ。
人間社会の問題の大部分は、道徳精神の欠如からではなく、知性とリアリズムの放棄によって発生している。
信仰とは結果の是非を考えない精神であって、それ故に自己批判を停止させる妄念であり、これは実体を無視した暴政を誘発させる性質がある。
他者の実体的な意見を聞くことを拒絶する権威主義の精神では、大体のものごとは失敗に頓挫するものであって、故に民主主義は独裁よりも強い。
生きた感性、公平性や助け合いといった美意識のマインドを失って教条に堕落した民主主義は、民主主義というよりも民主制というシステムでしかない。
そうしたものは単なる群れることへの信仰であって、実体的な議論を破壊するイデオロギーなのだ。
愚かな党派抗争は民主制の特徴であったとしても、そこには民主主義の理念は存在しない。
群れることが責任転嫁に役立つことは多いが、問題解決に繋がることは殆ど無いのだ。
権威に支配された民衆による多数決は、「民主制権威主義」か「民主制全体主義」とでも呼ぶべきものだろう。
他者からの承認を求めるだけの彼等は、結果を創造することに全く以て関心を持っていない。
こうした「実を捨てて名を取る」だけ民主国家は、実体性、公平性、功利性の協和を重んじる公共判断からは程遠い。
政治的自由とはある種の高貴さを意味するものであって、それが無ければ民主主義など成立するはずもなかろう。
民主制を絶対の宗教善として観念的に信仰することは、実体としての民主主義を殺すだけのことでしかない。
民主制権威主義社会においては、誰が意思決定を行うかのみが重んじられ、何をするかがまるで問われない。
これは、個々人が自らの意思で実体に対して狙いを定める意識を完全に抹殺するだけのものだ。
オルテガは、「大衆の反逆」で、公共判断を志向せず、自分達の気分が許すかどうかでしかものごとを考えていない存在が大衆であると説明していた。
実体結果やら公共性ではなくて、観念妄想と己の気分でしか判断できないならば、対話など成立するわけがない。
民主主義抜きの民主制は、政治権力の主体ではなくて宗教権威の主体が民主化されただけのものに過ぎず、権威の恣意性と印象操作と個人利益主義で全てが動かされることになる。
宗教というものは信者の数を増やさなければ維持できないものであって、民主制によって成立する権威主義の一つの典型例であると言えるだろう。
数によって社会が動かされることになれば、社会はエゴイズムの最大公約数に堕落することしか出来ない。
自由なる社会とは、権威を破壊するだけのことでもなく、一切の規則がないということでもなく、自由のマインドを成立させるための的確なシステムが設計され、それが十全に機能している社会のことだろう。
公共判断に反する露骨な個人利益主義を排除出来ない近代民主制とは、最初から致命的な欠陥がある制度なのだ。
政治と法律の目的とは、貧富の格差を減らし、民主主義を成立させ、治安と言論の自由を担保し、国力を増強して、国民すべてが教育を受けられる、近代的な公共を造ることである。
政治も法律も、個人の蓄財や見栄張り、ましてやイデオロギー的な自己満足のために存在しているものではないということを、全ての日本人は意識しなければならない。
本著では民主制への批判が多いが、実は筆者は民主制そのものを否定しているわけではない。筆者が本当に批判しているのは、民衆を洗脳して民主制権威主義を成立させる神官達だ。
民主制というシステムでは、権威による観念的な煽動と多数決による強制を組み合わせることで、実体に基づいた話し合いを破壊することは容易い。
こうした詐術を用いれば、権威主義の人治政治を成立させることは実際に可能である。
実体の在り方を無視した上で、独善的な我が儘を押し付けるために、古の神官は宗教というものを発明したのだ。
政治における究極の問題は、誰が行うかという属人性ではなくて、公共判断を遂行するかどうかの意思決定の是非であり、そしてそれが社会全体に監視された上で納得されるかという社会的信認の有無であろう。
王様から民衆に権力行使の主体が変わったとしても、王様を洗脳した神官が民衆を洗脳し続けるのであるならば、結果は一切において変わることがない。
アメリカの「人民の人民による人民のための政治」とは、「国家公共の法治権力による人間理念のための政治」という民主主義を否定する、民主制権威主義でしかなかったのだ。
自らの意見を実体と照合して確かることを怠るか、事実よりも他者の意思を尊重するならば、全体主義社会以外は成立しないだろう。
あらゆる社会システムの根源はマインドに存在し、不文律はどんな社会であっても明文律よりも優先される。民主制を採用した結果として民主主義が破壊され、権威主義や全体主義が成立することも十分にあり得るだろう。
現代社会で行われている意思決定は、果たして民主主義であるのだろうか? それとも権威主義であるのだろうか? 若しくは、全体主義であるとすら言えるのかも知れない。
実体性と論理性の否定によって、論争に勝利することを目的とする、民主制の思想がヴァーチャリズムである。
ヴァーチャリズムが蔓延する現代では、政治家という権力よりもマスメディアという宗教的な権威が社会と人間を支配している。
何ら問題解決手段を示さずに権力への不信だけを徹底的に煽るマスメディアが、権威である自らをこの上なく妄信させようとする姿勢は、喜劇としても実に不愉快だが、彼らは権力を批判しているのではなくて、それを単に否定しているに過ぎない。
何も実体に創造する意思がないにも関わらず、観念的批判にだけはどこまでも熱心で、建設性が徹底的なまでに欠如した彼等は、ニヒリズムの擬人化であると言って何ら問題はないだろう。
マスメディアには実体的な向上心はまるでなく、お茶を濁してふざけることとマウンティングにしか興味を持たず、サンゴにKYと落書きをしながらも、事実を指摘する者に対して空気を読まないとバッシングを行う。
向上心を持たない堕落を許さない実体的感性と文化的知性が日本の美意識であったはずだが、マスメディアは日本の文明と文化を破壊して、人間を堕落させることにだけ熱意を向け続けている。
愛国心を嫌う以上に民主主義を嫌う神官達が、動物的快楽欲求を煽ることで人間的探究精神を破壊することは必然のことだろう。
観念妄想は科学の否定であり、形式主義は技術の否定であり、権威主義は民主主義国家の否定であり、宗教は政治哲学の否定であり、煽動は人間の自由の否定である。
マスメディアは権威である自らが社会を支配するために、自分で何も考えない愚者を造り続けてきた。
保身のために他者を犠牲にすることに躊躇いを持たない、人間理念と無縁な畜生道だけを作り続けてきた。
マスメディアは、人間の「認知への意思」を「観念への応答」に堕落させ、実体の探求者を殺して煽動される消費者を増やし続け、実体世界を観念にすり替えることによって社会を征服した。
実体認知抜きの行動が強制される現代の観念化社会は、かつて無い程に人間の「群れ意識」を増幅させていることは言うまでもないだろう。
とはいえ、SNSの発展によって従来型のマスメディアよりもSNSの方が社会と人間を支配しうる宗教的権威となるかも知れない。
ネット上のSNSにおいては意見を交わす議論よりも「いいね!」という承認こそが求められる惨状である。
ネットには実体がそのまま存在しているわけではないが故に、実体を軸にした議論や検証は疎かになりがちであって、全てが虚構に基づいて決められてしまうこともしばしばだ。
SNSとは、マスメディアがより悪化しただけのものに過ぎない。
人と人の間に実体があるが故に、人間の間に「機能的な繋がり」が生まれる。
だが、実体を無視して人間を繋げようとすれば、権威主義的な群れが成立することとなる。
実体について話し合うことが無くなった結果、人間関係が群れて気分が良くなることを目的とした麻薬になったのだろう。
現代とは人間の間にヴァーチャリズムが蔓延して、実体を目的とすることが忘却され、他者と意思疎通して目的を共有することが出来なくなった時代なのだ。
事実を確かめた上で問題解決を行うことよりも、個人利益のために人気取りを行って、群れの中で自己権威化を行うことを優先するような、科学技術者であることよりも宗教家であることを選ぶような腑抜けが増えるのならば、社会はナチスが支配する状態にしか成り得ないだろう。