「利己的な遺伝子」と「生存機械」 : われわれは何者か?───生物とは遺伝子の容れ物となるための「バイオマシン」だ ~ 生存機械と不滅のコイル #Sefig Ⅰ | 進化心理マガジン「HUMATRIX」
生物学は、重大な真実を暴き出してしまった。
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」
(D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous)
────これはフランスのポスト印象派(野獣派に足を踏み入れているが)の画家、ポール=ゴーギャン(1848-1903)が遺した有名な絵画のタイトルだ。
よく哲学者や人文家に引用されたりオマージュされる文章だが、おそらくホモサピエンスの脳が進化上の理由からそれを問いやすく出来ている(マキャベリ的知能としての設計物:行為者性を想定し、理由を知りたがり、意味の問いを投げかけ、物語を紡ぎたがるような仕様で出来ている)ために、この問いかけのフレーズは多くの人々の胸を打つのだろう。
これは創世神話が石器時代に誕生した頃から──この問いを人々が投げかけなければ"神"はけっして産まれないだろう──文字を手にした文明化以降も、あらゆる全ての人々が己の人生でかならず一度は問い、そしてゴーギャン自身も死ぬまで問い続けた難問だった。
(ゴーギャンは人類の「生」の起源を求めて、まだ文明化が進んでいなかったタヒチ島に渡った。描かれたタヒチの人々の営み。青く薄く光っている者は「超越者/the Beyond」だ)
"われわれは何者か?"
──この問いの〈答え〉を、21世紀現在の生物学は提示することができる。
(こういう傲慢さにうんざりするような感性は大切にされるべきだし、意味の探求は人間の証明だ。その精神活動の果実はサイエンスの分野ではなく素晴らしきアートの分野で発揮される)
それによると、俺たちホモサピエンスとは、
遺伝子に利用されるものとして産みだされたヴィークル(乗り物)
なのだ。
* * *
「はじめは単純だった」
──世界中に衝撃を与えたドーキンスの著作の第二章は、こういう書き出しではじまる。
(リチャード·ドーキンス著、日高敏隆/岸由二/羽田節子/垂水雄二訳 『利己的な遺伝子 40周年記念版』2018年、紀伊國屋書店)
*R.Dawkins (1976)
──ドーキンスの言うように、生命の起源は
「自己複製子」
(=自己複製できる化学分子)
というものの出現に遡ることができる。
(↑"自己複製"して増殖するガン細胞)
前回も見たように、自己触媒(autocatalysis)したり代謝(metabolism)をしたりする化学システムならば生命以前の世界にも存在した。
──だが、ビーカーのなかで自己触媒するホルムアルデヒドと糖の溶液はけっして「生命」じゃない。それは触媒することで“成長”はしても、自己複製(=コピーをつくって、二つに切り離されて増える)をしないからだ。
現在、俺たちをふくむ地球上のほぼ全ての生物が用いている自己複製子は「DNA(デオキシリボ核酸)」という銘柄だ。俺たちはこれを「遺伝子(Gene)」として利用している(あるいは俺たちが利用されている)。
DNAは塩基配列として編み上げられて染色体というケースの中にまとめられている。俺たちの全身を構成する細胞(成人男性でおよそ37兆個ある)の一つ一つの核の中には、これがそれぞれ2セットずつ入っている。
しかし地球史の過去を振り返れば、"自己複製子(レプリケーター)"としての機能を持って生じた化学分子はDNAだけではなかっただろうといわれている。
──DNAが最も成功し、普及しただけだ。
(ここにも自然淘汰の「生成-テスト・アルゴリズム」が働いている──自らのコピーをうまく残せなかった自己複製子の銘柄は、何十億年という時間のなかで消え失せるしかなかった)
近年の研究から判明したのが、
"生命の起源は「DNA」ではなく「RNA」という自己複製子だった"
という事実だ。
「RNA」(=リボ核酸)は、DNA(デオキシリボ核酸)とは組成が微妙に異なる化学分子で、俺たちのDNAの複製にも関わっている。
──っていうか、DNAだけでは何もできない。
DNAはたんなるヌクレオチドの鎖だ。細胞がその塩基配列の情報にならってタンパク質を手順通りに作り出すというだけだ。
(誰に命令されて?──もちろん進化を司るGOD=ゲノム組織化装置に、だ)
細胞は、細胞核の染色体にDNAの塩基配列を保持している。DNA(=デオキシリボ核酸)と化学組成が似たRNA(リボ核酸)分子がまず作られ、塩基配列の構造が"コピー"される。
このDNA→RNAは、図書館から持ち出し禁止の本をノートに書き写すみたいなもので、「転写/Transcription」と呼ばれるプロセスだ。
DNAを転写したRNA分子は細胞核の外のリボソームというユニットまで運ばれ、ここでDNAから書き写された塩基配列情報がメッセージとして伝えられる。
その情報はリボソーム内で「タンパク質(Protein)生成コード」として機能する(このプロセスは翻訳/Translationとよばれる)。
リボソームはRNA分子を飲み込み、その配列コードに基づいてアミノ酸を連結させ、様々な種類のタンパク質を合成する。リボソームはまさに"タンパク質生成工場"なのだ。
(その工場で作られるタンパク質製品のなかに「酵素」とか「ホルモン」とかもあるわけだ)
──ところで、RNA分子のなかには、これまで語ってきたように、DNAの塩基配列を書き写して(転写して)工場であるリボソームにまで運ぶという"パシリ"をやるやつら(=メッセンジャーRNAとよばれる)だけでなく、「工場」であるリボソーム自体をそもそも造りだす技術者、リボソームRNAというものがある。
リボソームRNA分子は、略してrRNAと表記されることが多い。このrRNAの塩基配列はDNAとおなじく両親から受け継がれたもので、ふだんは細胞核の外である細胞質に漂っており、必要に応じてリボソーム工場をつくり、その内部で「酵素/enzyme」としての役割を果たす。
* * *
# 地球上のあらゆるすべての生物は「自己増殖するrRNA」から生まれた
2018年現在考えられているところによれば、生命の進化史における最初の自己複製子(遺伝子)はrRNA(リボソームRNA)の先祖だった。
リハソームRNAは、塩基配列の情報を保持しているだけでなく、DNAとはちがって、自らが酵素としても機能してタンパク質をつくりだすことができる。
つまりrRNAは「自己増殖できる独立した遺伝物質」=自己複製子として、ひとりで存在することが可能なのだ。
(これはドーキンスが「利己的な遺伝子」を著した1976年にはまだ"判明"していなかった事実だが、まさしく彼の生命の遺伝子起源説を見事に体現するものだ──「卵が先か、ニワトリが先か?」そう聞かれたら、これからはこう答えよう:「遺伝子が先だ」)。
* * *
# 「不滅の分子/The Immortal Molecule」をつくる
2009年に発表されたG.ジョイスとT.リンカーンの衝撃的な研究結果*は、生物学界だけでなく科学界すべてを揺るがせるものだった。
"「自己増殖可能な独立した遺伝物質」として機能するRNA分子を作ることに成功した"
というのだ。
(*T.Lincoln & G.Joyce 2009)
あまりに衝撃的なジョイスとリンカーンの研究内容を、英国の名門インペリアルカレッジ・ロンドンで教鞭をとるネッサ・キャリーは、著書の中で驚きをもって説明している。*
(ネッサ·キャリー著、中山潤一訳 『ジャンクDNA―ヒトゲノムの98%はガラクタなのか?』2016年、丸善出版)
*N.Carey 2015)
(なんてことだろう?!進化の「生成-テストアルゴリズム」が機能的に作動している!)
ジョイスとリンカーンの研究は当初、技術的な理由から厳密には「自己増殖」ではなく「お互いに相手を増殖させる2ペアのRNA分子」の発見、というレベルに留まっていたのだが、
2014年になって、ジョイスは自分自身を複製できる単独のRNA分子(正真正銘の自己増殖RNA)を作り出すことにも成功している。*
*J.Sczepanski & G.Joyce 2014
──彼らが生み出したもの、まさにそれは、本人たちも呼称するように
「不滅の分子/The Immortal Molecule」
だったのだ。
・[Tips]自己複製するRNAが作られた──人工生命体の創出に向けた新たな一歩だ ダーウィン的進化をほぼ再現
・pick:The Immortal Molecule(不滅の分子)
・pick:A never-ending dance of RNA(けっして終わらないRNAのダンス)
* *
DNAは素晴らしい分子である、
しかし──
──ネッサ・キャリーは、DNAが生命の起源たる自己複製子としてはやはり不適格で、RNAこそ相応しいのだということを、簡潔に述べている。*
(*N.Carey 2015 『JUNK DNA:A Journey Through the Dark Matter of the Genome] )
* * *
さて、よーーくわかった。
自己複製する化学分子から生命が誕生したのは、もう十分によーくわかった。
しかし、問題は俺たち「アニマル」だろう。
(animalはラテン語で「命が吹きこまれたもの」の意味)
俺たちアニマルは何者なのか?;わるいけどどう考えたって、自分がただの化学分子だとは思えない。(そうでしょう?)
そしてその答えの提示こそ、ドーキンスの『Selfish Gene』の核心でもある(:思い出して欲しい──ドーキンスは分子生物学者ではなく、ダーウィンと同じ、動物行動学者だ)
* * *
# 自己複製に伴う微かなコピーミス
重要なのは、コピーミスだった。この世界のあらゆるものに複製ミスは生じる。
工場のマシンを使って同じように量産される製品、どれだけ精密に作られた製品だとしても、ミクロなレベルまですべてが同じということはあり得ない。
もちろん、現在使われている自己複製子・DNAは、複製ミスが酷すぎたこれまで地球史上で存在したその他数多くの自己複製子が自動的に崩壊し、排除されてきた結果*として、コピーに関してはかなりの精密さを誇る。
(*コピーミスがあまりにひどいと原型を留めなくなるので、それはやがて自己複製子としての機能を果たさなくなり、滅亡、淘汰される)
だが、それでもコピーミスは起こる。
ヒトゲノムは30億個のヌクレオチド(A,C,G,T)の配列から成っているが、ヒトをふくむホ乳類のひと世代では、このうち約100か所に、コピーミスが平均的に生じる。
(30億個の配列のうちわずか100か所。比率にすればほんのわずかで、DNAがいかに自己複製子として優秀かが分かるはずだ)
「突然変異」というとたまにしか起きないことのように聞こえるが、複製のたび、つねに突然変異は遺伝子レベルで生じている。勿論この変異はただのコピーミスなので、まったくランダム(無作為)に生じる。
そうすると、どうだろう?
原始の海には、オリジナルの自己複製子から複製ミスが何世代も積み重ねられた結果として、オリジナルとほとんど配列は同じなものの、微妙にどこかが違う変種タイプの自己複製子がさまざまに占めることになる。
(もちろん変異があまりにひどすぎてオリジナルのように自己複製できなくなった無数の亜種は自ずから崩壊して、淘汰されている)
──さあ、進化がはじまっている。
生命哲学者、ピーター・ゴドフリー=スミスによる「進化エンジン」の定式を思い出そう(いや、まだこれは載せていなかった気がする)。
" 自然選択による進化は個体群中の変化であり、それは次のものに由来する──
(ⅰ)個体群のメンバーの形質(特徴)に生じる変異であり、
(ⅱ)自己複製(リプロダクション)の割合の差異を引き起こし、
(ⅲ)遺伝的である。
- Godfrey-Smith 2007"
(この3つの要因すべてが存在している時にはいつでも、自然選択による進化が不可避の帰結として生じる。)
(繰り返そう:「この3つの要因すべてが存在している時にはいつでも」、だ。俺たちの日常の世界には進化の産物がどこにでも転がっている)
超カンタンだ。
しかし難しく書けばカッコよくなるので(学者のホモサピたちは界隈から尊敬を得るために──これはアニマルとしての無意識の戦略──難しくカッコつけて書くのが好きなんだ;)そういう風に書いている。(俺もだ)
このゴドフリースミスの進化エンジンに関する定式を、アメリカの有名な進化生物学物デイヴィット・スローン・ウィルソンは『Evolution for Everyone(みんなの進化論)』*という著書の中で、もっとカンタンに──俺たちおちんちん脳なサルにもわかるように──説明してくれている。
(もちろんこれもまたカッコつけである)
(デイヴィッド·スローン·ウィルソン著、中尾ゆかり訳 『みんなの進化論』2009年、日本放送出版協会)
(*D.S.Wilson 2007)
*
ゴドフリースミスの定式に則れば、オリジナルから増殖した自己複製子たちは必然的に("不可避な帰結として")「進化」していく。
原始の海に存在した自己複製子たちは、すべて「祖先」は同じだが、それぞれに特徴が(得意と不得意が)少しずつ違った。
ドーキンスはこの「違い」を──つまり進化の方向性を──3タイプに大きく分類している。
〈3種類の安定性へ向かう進化傾向〉
❶ 寿命・・・個々の分子が長期間存続する。
(他のタイプより安定で、いったん作られると他のものより分解されにくい=死ににくい→ 繁栄する)
❷多産性・・・複製の速度がはやい。
(他のタイプよりコピー効率が高く、多少雑になるとはいえ"量産"できる→ 繁栄する)
❸複製の正確さ・・・バグが少ない。
(X型分子が平均10回に1回の割合で誤ったコピーを作るのに対し、Y型分子が1000回に1回しか誤りをおかさないとすれば、明らかにY型分子の方が数が多くなり→ 繁栄する)
*R.Dawkins 1976
──さらにこの誤解されがちな「❸」に関して、ドーキンスは以下のように説明を加えている。*
* * *
# “生存資源”をめぐる競争の開始
「原始のスープ」のなかで、自己複製子たちはそれぞれに変異し、複製し、増殖していく。
ここで避けられないのが「競争」だ。
──ジョイスとリンカーンの研究でも、試験管の中でRNA分子が増殖していくなかで、資源の取り合いが起こっていた。
分子の安定性を保ち、崩壊することなく、リソースを効率的に獲得して、うまく"増殖"したものが多く生き延びたのだ。
──ドーキンスは語る。
──さあ、いよいよコトの本題だ。
ドーキンスは続ける。
繰り返そう──。
Re:いまや彼らは、外界から遮断された巨大で無様なロボットのなかに巨大な集団となって群がり、曲がりくねった間接的な道を通じて外界と連絡を取り、リモートコントロールによって外界を操っている。
いまや彼らは「遺伝子/Gene」という名で呼ばれており、私たちは、彼らの生存機械なのである。
──さあ、衝撃的な事実が判明した。
ゴーギャンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」(D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous):この永遠の問いに、生物学はいまや〈答え〉を与えてしまう。
「生物」の正体とは、
“Vehicle For Genes
(遺伝子の乗り物)”
なのだ。
──すなわち、俺たちの正体とは、「遺伝子の乗り物(Vechle for Genes)」としての、生存機能をもったロボットだったのだ。
生物は「遺伝子(Genes)の乗りもの」、つまりわれわれの身体のハンドルを真に握っているのはわれわれではない。
それまでの定説では、生物は自分の個体情報を「遺伝子という記録媒体」に書き写して(つまりUSBのように)、親から子へと渡しているのだと考えられていた。
しかし実際には、遺伝子こそが「主体」として(正確には約2万2千個の集合体=ゲノムだが)存在的に完全に独立していて、いわば寄生虫のように俺たちの身体を宿にして棲みついている──いや、この言い方はおかしい、俺たち宿主をつくったのは遺伝子なのだから家賃を払うのは俺たちの側だ──ということだ。*
(イメージ、デメニギス)
──このような内容のドーキンスの『利己的な遺伝子』が出版された当時、イギリスの「Nature」やアメリカの「Science」といった著名な科学誌はどこも、“利己的な遺伝子”の話題で持ちきりだった。
“われわれの身体は、われわれ以外の他の誰かのものだったのか? ”
全世界の学者が震え上がった。もしそうならば、すべての学問の前提が根本からひっくり返るかもしれない。
かつて人間は、自分の身体の所有権を完全に握っていると思っていた。
だが違った。
この身体は別のやつの持ち物だった。
生物とは、遺伝子が行動を起こすための媒体。コクピットに遺伝子という操縦士が乗り込んでいるアバター。
盲目の遺伝子の〈目標〉は、“じぶんが生きつづけること”。そのために遺伝子は生物のカラダに乗り込んで命令して、遺伝子生存戦略を遂行させようとする。
生物個体は「(自分の体の中の)遺伝子が生存すること」を目的にして──目的という言葉が気に入らないなら「あたかも目的にしているかのように」と言い換えてもいいが──行動する。つまり個体同士で、遺伝子コロニー vs 遺伝子コロニーの生存競争が行われている。
繰り返すが、遺伝子の〈目標〉は、“じぶんが生きつづけること”だ。──そのために俺たち生物は、生殖行為によって、遺伝子サマを後世に残そうとする。
それによって生じた「子ども」とは、遺伝子にとってのいわば“新しいビークル(乗り物)”だ。生物が子どもを作れば、その中に遺伝子は移動(移住)する。
──遺伝子にとって生物の繁殖とは、旧車から新車に乗り換えるみたいなものなのだ。だから、遺伝子的には子供の方が優先度が高い。そっちの方が新車だし、廃車になるまでまだまだ長く乗れるからだ。
親が子供を育てるために多大なコストを支払うのは、「俺たちの新しいクルマ、ずっと乗れるようにちゃんと整備しろよ」と、遺伝子が生物に命令を下すからなのだ。
そして、ドーキンスのいう通りに、生物がただの「遺伝子の容れ物になるロボット」だと解釈し、行動主体を遺伝子にして捉え直すなら、「親が子を守る」という行動は「遺伝子が自分を守る」ということであり、それは単なる自己保存(=保身)の行為に過ぎない。
(母親が子供に注ぐ愛情が利他的/for someoneなものではなく利己的/selfishな根源に由来するとすれば、道徳的な議論を巻き起こすのは当然かもしれない。──"「母の無償の愛」は「エゴ」だったのか?")
───すべての生物は遺伝子の意志のようなものに基づいて、遺伝子の生存のために動くようプログラムされている “マシーン” に過ぎない。
われわれ “ヒトゲノム運搬マシーン” は、AIロボットのように「自分のアタマで考える」ことができるし、「自律的に身体を駆動させる」存在ではあるが、これまたAIロボットと同様に、その身体構造はあくまで「設計図」に沿って組み立てられたものに過ぎず、その振る舞いや行動も、おおかたパターンレールの上を沿うものなのだ。
もちろん、遺伝子は「スイッチ」によって発現のon/offが切り替えられるようになっているプログラムだ(バクテリアですらそういうことをしている)。
──しかしその操作もまたアルゴリズムに沿うものなのであって、「自律的にエンハンスメントする」機能をもっているAIコンピュータとやっていることは根本的に変わらない。
──生物が進化という生成-テストアルゴリズムによって構築された物体である以上、生物種が特徴的に備えているあらゆる身体メカニズム(脳も含めて) は、
・「生存(Survive)に役立つ」
・「生殖競争(Replicate)に役立つ」
のどちらかのためのもの(=機能)として究極的には“デザイン”されている。
ここではこの生存/生殖の「ため」のもの、という分類をS/Rと表記することにする。
このS/R分類は重要だ。──なぜなら、生物=生存機械が「遺伝子の乗り物」として産みだされた存在である以上、"ミッション"としてあたかも期待されているのは(これもまた議論を呼ぶ言い方だが)「生存:Survive」と「生殖:Replicate」のふたつであり、時として──いや自然界では大抵の場合──このふたつは「引き換え(トレードオフ)」の性質を帯びているからだ。
(自然界において、生殖は広く生存とのトレードオフとなっている)
──たとえば、日々俺たちの心を渦巻く「感情」にもこのS/R分類は適用できる。
感情は進化の結果として心に備わったシステムであり、それらは究極的にはS/Rのうちどちらかの機能を(混合しているものもあるが)備えているものだ。
あるホモサピエンスのオス個体が、美人なメス個体を前にして足をすくませてしまうというようなタイプの「恐怖」(ビビりといってもいい)を考えてみよう。──この感情はS/Rのうちどちらに分類されるだろうか?
ホモサピエンスは「IF」に対する恐怖である不安というシステムも備えているので、そして進化のデザイナーは21世紀の環境に照準を合わせていないので、目の前に見える状況のみからオス個体の反応の意味合いを考えてもラチがあかない。
進化史上の霊長類の群れ社会、先祖の石器人たちが何百万と暮らしたいわゆる"部族社会"──これはEEA(人類の祖先の環境)とよばれる──を想定して、その社会環境においてはこのような状況におけるオス個体の「IFの不安」が、一体どのような起こりうる事態に対して向けられていたものなのかを考えなくてはいけない。
──そうしてはじめて、現代人たちは
「いま自分が何をやっているのか」
を"知る"ことができる。
ロボットたる自分みずから、いま心のシステムが「作動」しているのだということを俯瞰してみれば、さまざまな発見があるはずだ。
それらのシステムの「作動」には、進化的&生物学的な背景のなかで仕組まれた、当事者である俺たちが考えたこともないような、"ある理由"が潜んでいるのだ。
* * *
# 行動プログラムとは何か?
──このテーマはここではカンタンにとどめておくが、生存機械の「行動」はアルゴリズムに則るものだ。
アルゴリズムとは設計者によってさまざまな判断規則(規則というよりも傾向という方がいい場合もある)をプログラムされたもので、これはドーキンスも喩えているように、人間を相手にチェスをするCOMプログラムに近い。
チェスゲームのプログラマーはCOMの動きを直接操作するわけではないし、チェス盤の上で繰り広げられる「あらゆる」状況とそれに対する最善手を予め計算して、チェスCOMに教えているわけではない。
──だいたい、チェス盤の上で繰り広げられるあらゆる可能性すべてをリスト化することはできない。チェスには最初の4手の動きだけで3000億通り以上の可能性があるのだ。選択肢すべてを吟味して、どれが最善手かをあらかじめ「評価」しておくことなど不可能だ。
プログラマーはあくまで、あらかじめ無数の"アルゴリズム"をCOMに書き込んでいるだけなのだ。
ドーキンスに言わせれば、これは「忠告」のようなものだ──たとえば、「キングを無防備のままにしておくな」。
(ホモサピエンスの母親の場合、これは「子供を無防備のままにしておくな」かもしれない)
──ドーキンスは以下のように説明している。
──この「時間的ズレ」とは、チェスゲームのCOMとプログラマーの関係と同じだ。
俺たちがチェスゲームのCOMと戦っているとき、画面の向こうに人間のプログラマーがいるわけではない。
そして俺たちが、社会において他のホモサピエンス個体の誰かと交流しているとき、彼の脳みそのなかにちっちゃな小人が住んでいるわけではない。
(俺たちホモサピエンスは意識のシステムを持つために"〈意識〉は無意識に操られている"と聞いたときにはこうした傀儡的イメージを抱いてしまうのだが、無意識の思考処理システムの方も間違いなく彼の肉体に所属するものであり、彼自身である。──ただし、ここで「彼」を〈意識〉とイコールであると考えるなら・・これを読んでいる俺たち=意識の実感からすればそれは確かにそうなのだが・・、“彼は〈無意識〉によって操られている”というのは事実だ)
──ドーキンスは説明をつづける。
*
# 「行動の可塑性」について
──生存機械の行動は、チェスゲームのCOMのように、あらかじめ搭載された無数のアルゴリズム規則("キングを無防備のままにしておくな")に則って、自律的に行われる。
ただ、チェスゲームのCOMが判断するのは数式に変換されるチェス盤の譜面模様だが、生存機械が判断するのはけっして数式には変換しきれないであろう現実世界のカオスな模様だ。
(この違いに関しては、現実世界のすべての要素を「数式」に変換して計算しようとした経済学の失敗を考えて欲しい──Xに感情を代入できるだろうか?)
そのために、生存機械に搭載されている無数のアルゴリズムは、情報の取捨選択、どのファクターに注目するかなどによって様々な判断を下すことになる。現実世界が画一的な数式モデルに変換されない以上、アルゴリズムの選択はそのときそのときに応じて変化する。
「条件つき戦略」
──社会生物学には「条件つき戦略」と呼ばれているものがある。これは無数にたくさん確認されているのだが、その一例としてJ.オルコックは、ハネカクシ(Leistorophus versicolor)という昆虫の行動をあげている。
ハネカクシのオス個体は、縄張りを持った大きなオス個体の近くにメスのフリをして侵入し、メスと同じような仕草をとることで、縄張りオスを騙して自分に求愛させる。
オルコックらの研究によると、この「女装」行動は、
1.縄張りオスに暴力的な攻撃を加えられることなくそこに安全に居住できる
2.本物のメスに求愛する機会が得られセックスできるチャンスが増す
──といった効用があり、女装オスに繁殖上の利益を実際にもたらしていたことが確認された。*
観察によれば、メスと女装オスがセックスしている間、縄張りオスは(じぶんが魅力的なメスだと思いこんでいる)女装オスに求愛するチャンスを辛抱強く「順番待ち」していることすらあったという。
*A.Forsyth & J.Alcock (1990)
──そして、このようなオス個体による行動の違いが観察されると、従来の生物学では「2つのタイプのオスは遺伝的に異なっている」と推測されてきた。
遺伝子の違いがその行動の差異をもたらしたのだ、
と。
しかし、実際にはハネカクシのオスはほとんどの個体が状況によって実行する戦略を変更することが確認されている。
自分より大きなオスの縄張りでは攻撃されないように女装オスとして振る舞い、自分より小さなオスと出会った際はメスのフリをせずに無視したり、攻撃する。
つまり、ハネカクシのオスは「A行動をする」か「B行動をする」かを遺伝子にプログラムされていたのではなく、
「状況に応じてA行動かB行動をせよ」
というアルゴリズム(条件つき戦略)を遺伝子にプログラムされていたのだ。
* *
# 「○○行動をうみだす遺伝子」は見つからない
──進化について本当に理解していれば当然の話だが、ある行動をうみだす遺伝子Xを特定するなんてことはほぼ不可能に近い。
これは化学に近いミクロな生物学(分子生物学)を研究しているひとたちには悲報かもしれないが、事実なのだ。
ミクロな生物学を専門とする人たち(化学者)がよく勘違いしているのは、進化というデザイナーは、DNAの塩基配列の順番を考えたり、DNAの塩基配列を一から組み立てたり、DNAの塩基配列をマイクロレベルのピンセットで組み換えたり・・・・・・・そんなことは決してしていないということだ。
進化、つまり自然選択の生成-テストアルゴリズムは、アニマル(命あるものの意味)のレベルで「外から」作動している。顕微鏡を覗きながら塩基配列のレベルで「内から」プログラムを調整したわけではない。
──これまでも述べてきたことだが、この事はデネットを引用すると分かりやすいだろう。
進化が生み出す「解読不能なまでにもつれたスパゲティ・コード」
(ダニエル.C.デネット著、木島泰三訳『心の進化を解明する ―バクテリアからバッハへ』2018年、青土社)
*Dennett 2017
*
「○○行動をうみだす遺伝子」というのは"喩え"のレベルにだけ存在しているのであって、実際に顕微鏡を覗いてDNAの塩基配列のなかにそれを発見しようとするのは愚かともいえる行動だ(そんな愚かな行動を生みだしたDNA配列はどれだ?)。
テキサス大の動物行動学者マイケル・ライアンは、「さえずりのための遺伝子」という例をあげて説明する。
*M.J.Ryan 2018
*
# 「準備された学習」とは何か?
──このテーマもまた別の機会に詳しく語るが(俺たちホモサピエンスは非常に多くの「準備された学習」プログラムを備えている)、じつは「学習」というものも遺伝子のプログラムの範疇にあるのだ。
「パブロフの犬」などが示す通り、アニマルの多くは(とくにホ乳類は)みずからの経験から"学習"することができる。しかしそのほとんどは実際には遺伝子にコードされた「条件つき戦略」の一環をなすものといっていい。
そもそも、進化によって、遺伝子コードはすでに十二分に「学習」されきったものになっているといえるのだ。
デネットは生物個体による「学習」を「自己を再デザインするプロセス」と定義している。では、そもそもの進化が産み出したオリジナルデザインの方は?──こちらも見方を変えれば、ひとつの「学習」プロセスの産物だ。トライ&エラーの自然淘汰が、「誤り」から学んで、統計的に導き出したベターな〈正解〉なのだから。
学習とは自己を再デザインするプロセスである
──そもそも「学習」というメカニズムは、生物界一般的にいうと、危険なものだ。
なぜなら、進化というデザイナーはすでに膨大なトライ&エラーから(ただのトライ&エラーではない、生死を賭けた全身全力のトライ&エラーだ)統計的に"学習"して、その生物をそのように設計しているからだ。
かつてドイツ帝国を率いたビスマルクの言葉に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という有名なフレーズがある。この言葉は、自然界においていかに自分勝手な「学習」を行う事が危険かをよく表したものといえるだろう:
──進化とは、これまでの歴史の産物だ。
自分本位の「学習」によって──つまり自らの味わった少ない経験から「教訓」を安易に導きだしてしまうことによって──進化が統計的に培ってきたデザインを自ずから変化させてしまうことは、もちろん状況によって得られるものもあるだろうが、適応度(Fitness)を大きく引き下げてしまうような悲惨な結果にもつながるのだ。
(本能的に行動できる男はモテる!みたいな話を聞いたことはないだろうか?)
J.オルコックは「特殊な芋虫を食べて気持ちが悪くなった鳥」という例を出して、学習の危険性(リスク)を以下のように述べている。
だから学習には「学習指導要領」が遺伝子によって定められているのだ。
(ジョン·オルコック著、長谷川真理子訳『社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか』2004年、新曜社)
*J.Alcock 2001
*
「準備された学習」
──動物行動学者たちは、自然界にみられる様々なタイプの「学習」が、実際には「準備された学習*」とよばれる、いわば〈本能〉の一部に過ぎないものなのだということを突き止めている。*E.O.Wilson 1998
たとえば、サルの一種である俺たちは、進化上の天敵である「ヘビ」(触手などにも)に対してデフォルトで恐怖を覚えやすいように設計されている。
──これは「準備された学習」というかたちで俺たちの本能の一部として搭載されているプログラムで、何らかの場面でヘビを目にした刺激、あるいは周囲の個体の怖がっている様を目にすることによって、恐怖を学習するためのスイッチが入るのだ。*
E.O.Wilson 1998
(ヘビを見たことがない)実験室育ちのサルに行われた実験でも、他のものへの恐怖を学習させるのは難しいのに、ヘビに対する恐怖は即座に学習された。サルの脳を調べると、わずかな経験を経ただけで、すっかりヘビに対する恐怖反応が"発火"しやすくなっていたのだ。
このように、生得的な本能基盤によって、多くのテンプレ的な学習は支えられている。
「学習」はあらかじめ、プログラムによって方向付けられ、「用意」されているのだ。
(悪名高い)行動主義者のスキナーがかつて唱えたように、生物は単純な刺激反応(S-R)行動とその学習だけで成り立っているわけではない。
「進化心理学」の創始者であるJ.トゥービーとL.コズミデスは、それまでの20世紀の心理学(あるいは目に見えない心の研究などなんの意味もなさないとした「行動主義」)が、「経験-学習」プロセスというものに絶大な力を持たせていた状況に、反旗を翻した人物だ。
J.トゥービーとL.コズミデスは述べている。
「行動の可塑性(粘土のようにこねたら変化すること)をもたらすような神経のデザインは、比較的うまくいく結果をもたらすような、非常に狭い行動の範囲に行動を導き、しかも、かなりの頻度でそうする性質を備えたものでないかぎり、淘汰によって維持されることはない」
*J.Tooby & L.Cosmides 1992
* * *
以上、語ってきたように、あらゆる生物は種に共通・特有の行動習性 & 思考習性というものを持っている。
──それは “理性を持つ” と言われる、俺たちヒト(=ヒトゲノム運搬マシーン)ですら決して例外では無い。
そもそもその「理性」すら進化の産物の1つであり、遺伝子を生存させるために俺たちホモサピエンスという生存機械に新たに(とはいえ過去に)備え付けられた要素に過ぎない。
かつて原初の群れ社会や部族社会において十分に機能していたそれが、もし、直近一万年の環境変化によって21世紀の現代社会では(遺伝子にとって)もはや機能的で無いとなれば──、やがてふたたび消え失せるだけだ。
───#Sefig ⑴ 「利己的な遺伝子」と「生存機械」終
※ p.s.
「あの騎士のような自由」──これはもちろん、スペインの文豪セルバンテスの名作『ドン・キホーテ/El ingenioso hidalgo Don Quijote de la Mancha』を指すものだ。
ストーリーは騎士物語を読みすぎて現実と空想の見境がつかなくなってしまい、ついには自分を歴戦の騎士だと思い込んで冒険の旅に出る人物、ドンキホーテを主人公にして展開される。
(「現実」と「空想」──いまや俺たち生存機械も、ドンキホーテのように生きていることになる。世界は進化の産物である脳が生存のために見せるヴィジョンであり、「我思うゆえに我あり」はデカルトの妄想なのだから・・・。
さて、この科学的事実に基づく発言は虚妄だろうか?)
作者セルバンテスはこの物語を牢獄のなかで構想したが、ストーリーの随所に込められているメッセージはやはり『自由』だ。
*Miguel de Cervantes, 1615
ちなみに1957年版の映画『ドンキホーテ』では、冒険を経て故郷に帰還したドンキホーテは、死の床の薄れゆく意識のなか、こう唱えながら消えてゆく。
"自由のために、勝利の日まで、進め、進め"
──事実としていまや「生存機械」である俺たちは、さあ、どうしよう?
『ドン・キホーテ』を評して、スペインの歴史家アメリコ・カストロはこう述べている。*
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