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【読書】心理学と統計と私(河合隼雄『ユング心理学と仏教 〈心理療法〉コレクション Ⅴ』)【基礎教養部】
科学性とは何か
最近、科学を科学たらしめるもの、いわば「科学性」について考えさせられることが多い。これは柄谷行人著『力と交換様式』を読んだことが大きいように思う。
柄谷氏の本では「科学的とはどういうことか」という問題について議論する場面がある。科学といえば物理学のように難しい数式を使って現象を記述する、というイメージを持たれがちであるが、だからといって難解な数学理論を使えばすなわち科学的なのかというと、後にも述べるように、それには疑問符をつけるべきである。また、科学は全てを疑ってかかるものだ、という認識についても実態とは異なるだろう。例えば、ニュートンは重力(あるいは万有引力)という目に見えない力を「認めた」からこそ古典力学を確立することができたことを考えてみればよい。疑うのではなく、何かを積極的に認めることにより、科学的な進歩が生まれることも多いのである。
逆に、ある現象の間に何らかの力学が働いているにも関わらず、それを目に見えないからとか既存の考え方からすると都合が悪いからという理由で無視することは、およそ科学的とはいえない。私が前回の書評で取り扱った安冨歩『生きるための経済学』で、安冨氏が既存の市場経済理論を「錬金術」であるとして批判し、「生きた経済学(ビオ・エコノミックス)」の必要性を訴えたのも、おそらく同様の考え方に基づいている。例えばミクロ経済学の一般均衡理論では、不動点定理をはじめとするかなり高度な数学を用いて議論が展開され、高等数学をやっている者からすればその理論に美しさを感じるほどである。実際、私も初学の時は「すげ〜〜」となったことを記憶している。しかし、そういった専門的な数学を用いているからといって、現実における重要な力学を無視しているのであれば、科学的と言うことはできないし、都合のいい部分だけを取り出す「錬金術」という誹りを免れないだろう。その一方で、安冨氏がビオ・エコノミックスと呼んでいるのは、生身の人間の間で生じる力学(創発的コミュニケーション)を無視することなく、それを積極的に認めることから始まる学問、ということになる。そしてこれは、河合氏が考える心理学とも密接に関わる考え方である。
心理学と統計と私
河合氏は、自然科学の発展とテクノロジーが結びついて、人間が自然環境を含めた多くのものを意のままに操れるようになった一方で、自然科学の「自己と対象との分離」という考え方の過剰な適用が、「関係性の喪失」という心理的病をもたらすようになったと述べている。そして、心理学の役割は、自然科学のような「自己と対象が分離された理論とその適用」ではなく、そこですくいあげることができない「関係性」を前提とした知を見出し、それを用いて被分析者を援助することである。言い換えれば、自然科学のように個を抹消して理論を構築し、それを押し付けにいくのではなく、あくまで個から出発して普遍性に至るという道筋を見出すということである。また、ここでは深入りはしないが、表題にある「仏教」との関わりはこの点においても見出される。すなわち、宗教というものも、極めて個別的なものから始まるにも関わらず、(科学ほどではないにしても)ある程度の普遍性が見出されるということである。
こういった視点は、「私と統計」という問題を考える上でもかなり参考になる。少し前に、この問題について見解を記事に書いたことがあった:
ここで書いているのは、先ほどの文脈でいえば【統計は「この私」に「適用」できない】ということだが、しかし、常に統計の結果の逆張りをしろという主張でもない。以前はこの違いについてうまく言語化できなかったが、「関係性」という鍵概念を用いるとうまく説明できそうである。すなわち、統計をそのまま適用するでも、全く無視するでもなく、あくまで私という個別的な存在の「関係性」の中で捉えたときにどういった意味をもつか、ということを考えるのである。
統計でも自然科学でも、「この私」に関わる限りにおいては、それをそのまま「適用」して生きることは危険である。それは個という存在の抹消に帰結し、関係性の喪失をはじめとした根源的な不安を引き起こすからだ。そうではなく、あくまで「この私」の関係性(≒周りの環境と自分自身を含めた世界そのもの)の調和を目指す中で、その援助をする一つのものとして捉えるというのが、正しい扱い方ではないかと考えた次第である。