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―神道にユートピアはない― 國學院大学元学長 上田賢治 氏

「神道にユートピアはない」

そんなことを言われて貴方はどう感じるでしょうか。夢がない、救いがない…つらすぎるくない?………

私もユートピアはないと感じていますが、今回ご紹介する上田賢治さん〈以下敬称略〉とはそのアプローチの仕方に違いがあるので、私の考えはまたの機会に述べましょう。

今回の参考文献は、上田賢治『永遠の創造 神道の力 人間を超える力とは…』橘出版 昭和63年
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です。

◯神はいのちのちから

よく、神道は自然を神として信仰するもの、自然崇拝の宗教だと言われます。「自然力の人格化」です。しかし上田は、その見方は第三者の立場からの指摘であって、信仰者の信仰の事実ではないといいます。

では、一体信仰者は自然および神をどのように理解をして信仰しているのでしょうか。

上田は次のように述べています。

信仰者は、自然力を人格化して拝んでいるのではないからである。彼らは決して、自然を神として崇拝しているのではない。信仰の事実として、そのようなことのありえようはずはないのである。
  (中略)
いのちといのちの、ちからとしてのふれあいの事実がそこにある、といってよい。われわれが自然の中に神を、いのちのちからを感じとっているのではなく、神がいのちのちからであり、自然としてそこに存在しているのである。それを、われわれが感じているということである。
この事実を見誤り、かつ、理解しえないとき、神道は自然を神として人格化し、これを礼拝しているのだという誤った説明が行われることになる。

『神道のちから』P102-103

自然の中に神が存在するわけではありません。上田のいう「神がいのちのちからであり、自然としてそこに存在している」とは、神は自然としても存在し、また別の存在の仕方があるということではないでしょうか。神がいのちのちからであるということは、人には命があり、その命も神の力によって成り立っているといえます。

そして、

存在そのものがいのちをもち、生命の主体として存在の意味を成就すべき根拠を、自からの内に蔵していると考えることができるのである。このような創造のちから、存在の本義が自覚されるとき、神道における「ムスビ」の信仰が成立する

『神道のちから』P101

上田は、神道の神を「自然」だけに留まるような小さな存在ではないと言いたいのでしょう。神はもっともっと大きな存在で、「いのちのちから」といえるもので、その力によってさまざまなものが存在することができます。存在―実存の根拠である。それを神道用語で「ムスビ(産霊)」と呼ばれます。

(哲学の実存主義との対比を今後試みてみると面白いかも。でも、先ずはキルケゴールやハイデガーを読まないとなあ…)

〇神道にユートピアはない

さて、本題に入りましょう。

ユートピアは現実否定ないし現実逃避が根底にあって存在する理想郷です。今とは違う、理想的な世界。そこはエデンの園やイデアの様な完全であり、すべてが充足しています。ルサンチマンの追い求める世界ともいえましょうか。

一方で、神道においてはどうか。
神道は命の力を大切にし、ムスビによって次から次へと命が生まれて存在者が発生します。今生きていることを尊重して次世代へと継いでいきます。理想を追い求めるのではなく、あくまで現実主義の宗教です。まあ、それではさすがに政争や戦乱の世では息苦しすぎるから、仏教が浄土、涅槃といったユートピアを神道に代わって提示していたのでしょう。

そのような神道の現実主義的な傾向について、上田は次のように述べています。

神道は、どちらかといえば、現実を超越する原理をたてる宗教ではない。真理を絶対不変という抽象性において捉えることはしないのである。むしろそれは、真理が創造されるものであり、個々具体的な存在の個別性の中に、生命力として発現するものだと信じている。だから、現実を、否定を契機としてではなく、第一次的に受容し、肯定するのである

『神道のちから』P142

そのように、生命の展開を信じ、現実存在を肯定的に受容する神道に、ユートピア思想の生まれる余地はありえなかった

『神道のちから』P143

前にみたように生命力とは神のことでした。生命力を信じることは神を信じることになります。そしてその生命力は現実に存在するものであるため、現実を否定せず生きていくことになりめす。

現実を否定せずに生きるのは、中々に大変です。辛い時が多いです。ただ、それでも本気で生きていく

それが神道です。

私も皆さんも、現実逃避せず、本気で生きていきましょう。

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