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身としての手と掌
手と掌
くりすたるるさんの#手
昨年末に、尊敬するくりすたるるさんが記事の募集を掲げられた。
一目見て、私も書きたい・・と思って、でもまだまだ節分まで時間があると思っていたら、もう目の前。
魔法のようにひと月が蒸発していました。
どうして書きたいと思ったかというと、私の職業が指圧師だから。
手について、考えることは多々あります。
手についての著書もいっぱい持っています。
指圧は昭和の名人、浪越徳治郎師の母指圧のイメージから、親指で圧することを指圧と呼ぶと思われやすいですが、母指圧だけが指圧ではありません。
特に、わたしが学んだ関西伝統指圧では掌圧、手掌全体で押圧することをとても重視されていました。
ならまち月燈は女性専門の指圧院なので、私自身は更に柔らかい優しい掌圧を大切にしてきました。
その臨床上いろいろ試行錯誤してきたのですが、からだのことについてもいろいろな新しく深い視点をお持ちのるるさんが書かれた、私にとっての衝撃の記事がこちら
呼吸と指圧、もしくは掌圧とは、身心一如やマインドフルネスを考えるうえで、切っても切れない関係なのですが、どんな呼吸法よりもるるさんの呼吸についての説明が、私の臨床上の知見とぴったりフィットする感じがしたのです。
仕事柄、呼吸や整体の本をよく読みますが、こんなに自分自身の実感に即した文章はなかったです。
指圧の最後の仕上げに背部掌圧といって、伏臥位になった脊椎をぐっと手掌全体に体重を乗せて押圧する技術があります。簡単なようでいて、一番難しいのですが、それがうまくいったときの一体感たるやすごいのです。
それがどうしてか、私はずっと説明できずにいたのですが、るるさんの呼吸のブランコをこぐ・・という言葉と文章で、あ、なにか繋がりそう・・という氣がしています。
そして、小さな自分をブランコに乗せて背中をおすというイメージが秀逸すぎて、ああ、これこそ身も心も魂もすべてをつなぐ呼吸だ!と教えて頂いて、有難くてしょうがないです。すごいです。るるさんは天才です。ありがとうございました。
ああ……よくわかるような氣がします。
こちらのタイミングを相手に押しつけるのではなく、相手のタイミングに……相手の呼吸にこちらがあわせて手を添える。
ブランコを、背中から押してあげるときのように、できるだけぴったりのタイミングで。
呼吸のブランコのイメージを、秀逸といってくださり、ありがとうございます。
>身も心も魂もすべてをつなぐ呼吸
ああ、これは嬉しい。
ブランコが、それをつないでくれたらいいな!
言霊にして、大切にしますね!
コメントに書いている背部掌圧とは、施術の最後に、脊柱を上から下まで、手掌全体でシンプルに押圧していく技術なのですが、うまくいくと、施術者の呼吸と被施術者の呼吸が手掌を通じてつながって、同期して、すごい一体感のある気持ちのいい時間になるのです。
それは、あんま、マッサージ、指圧という三つの違う技術を内包させたあんまマッサージ指圧師の技の中でも、指圧だけの技であり、私はそれに惹かれて、鍼灸師ではなく、指圧師を名乗っているといっていいかもしれません。
手末(タナスエ):手の先。また指の先。語源は古事記に求む。
ー敷島の道からわかれた手末の道の手当の道ー
人類が古来からの叡智により体得した指圧は手末の道。
手技の語意からも医道の原点であろう。
わが師、吉岡先生の教科書に書かれたこのあとがき。
手末(タナスエ)とはなにか?
あまり聞きなれない言葉ではありますが、先生が書かれている通り、また文字通り、手の先、指の先によって行われる技は、手あての道であって医道の原点であるという考え方であるということ。
古事記に由来するとなっているが、直接的な影響は、三井甲之の「手のひら療治」によると思われます。
手のひら療治と申しますのは、国民宗教礼拝儀式でありまして、大和言葉で申しますと、シキシマノミチのタナスエノミチであります。
これは人と人との挨拶の儀式であり、神と人との交通の儀式であり、神を敬ひ我身をへりくだる礼拝の儀式であります。
三井甲之は歌人であり、右翼思想家でもあって、療術家や、身体療法の臨床家ではありません。
でも霊術といわれる身体技法、精神療法が花盛りであった明治から大正、昭和の前期に活躍し、「手のひら療治」を自ら宗教だと述べて、霊気=レイキ=レイキヒーリングや新宗教で広くみられる「手かざし」と同じように支持を集めていたというのが、とても興味深い人物です。
指圧、鍼灸、整体というような技術は、西洋医学では扱わない目に見えないものを扱います。
それは宗教や霊術、オカルト、スピリチュアルといったものと果てしなく混交しているもので、科学的でありようがないものです。
手は、ハンドパワーという言葉が昔流行ったように、なんらかのエネルギーの出入り口となるのでしょう。
そして、直接触れなくても、または遠隔からでも手からのエネルギーは相手に伝わるのでしょうが、一応指圧と名がつくと、直接、身体に触れることを前提とします。
そのときの手末(たなすえ)、または掌(たなごころ)
単なる身体部位としての物質としての手ではなく、手掌というものには、なにか目に見えないものが宿っていることを暗示しています。
同じことは、わたしは身体(からだ)という文字にも感じるのです。
身と体
身という漢字
「からだ」というとき、一般的には体と書きます。
でも私がからだというときに、「体」一字では私が表現したいものが言い表せない気がして、「からだ」は「身体」という二語で表現してきました。
その想いを記事にしたかったのだけど、つぶやいて終わってしまったのが、拙記事↓
去年、河合先生の著作を読み返す中で、なんども「こころとからだ」についての記述にあい、昔に読んだときは全く気付いていなかったのですが、なんと、今の私の中の「こころとからだ観」には、しっかりと河合先生の言葉が入っていたんだと気づかされました。
そして、やはりつぶやきで取り上げたこの対談。
鷲田ー私、先生と向かっていろいろじっくりお話しさせていただくのは今日がはじめてなんですけど、実は、先生の次男でやはり心理学者の俊雄さんとは面識があります。
あるとき彼がふともらした言葉に目からウロコが落ちました。
と言いますのは魂の話で、私はずっと、心とからだの関係があって、魂はからだと別のところで考えていたんですけど、彼がボソッと変なこと言うんです。これはユング心理学の理論に入っているかわからないんですけど、
「からだが魂ちゃうか」と。
で、その中を私というのが出入りしているんちゃうかと。
今までそういう発想をしたことがなかった。
自分と魂をくっつけて考えるけど、自分と魂を離し、魂と身体をくっつける。
それに対して、隼雄先生は「面白いね」と仰っているのですが、ミシェル・シェールという哲学者も
皮膚と皮膚が合わさるところに魂がある
と言いました・・と鷲田先生が仰ると、俄然、隼雄先生は身を乗り出して(という気がする・・(笑)
河合ーそれはすごく面白い。魂を求めているんだけど、なにをしていいかわからない者がセックスするんですよ。皮膚と皮膚が接すること。だから、セックスは意味が深いのだけど、皆それが魂のことだとわからんから、皮膚と皮膚の接触でどんなに気持ちがいいかと、全然話がべつのところにいく。
からだが魂・・
というときのからだは、やはり「身体」と書くしかぴたっときません。
そして、むしろ「体」はなくて、「身」だけでいいのかもしれません。
「身を投じる」
「身を粉にする」
「身を削る」
「身を捧げる」
「身に染みる」
「身の程をしる」
などの慣用句はすべて、「体」で言い換えると違和感があります。
日本語は明確に身と体は包含するものが違うことを示してきたんだと思います。
身としての手と掌
手掌と手掌を合わせるのが合掌ですが、その合掌した手の中、またはその手の先に魂があるのは、きっとどなたにもイメージしやすいでしょう。
指圧師としての私は、じぶんの手掌と、患者さんの身の上を合わせながらそこに魂の交歓を感じています。
いつも申し上げることですが、指圧は私からの一方通行のものではありません。
双方向に、濃密に魂が通い合うのが指圧なのです。
るるさんからの宿題
ならまちさん、こんばんは!
これ、おもしろいです。
「み」って、もしかして、「三」ではないかしら。
頭と心と体。
わたしの言い方だと、体さん、心さん、思考さん。
そのみっつをあわせて、日本語では「み」と呼ぶのかも。
ならまちさんのつぶやきを読んで、ふと思いついたことですが、こういう言葉の使い方って日本人らしい氣がします。
楽しいヒントでした!ありがとうございます!
そう、るるさんにはこんなコメントをいただきました。
これまた、とても面白い発想で、私には思いつきませんでした。
「み」は「身」でもあり「三」でもある。
今年一年、ゆっくり考えます。
るるさん、愉しい宿題を有難うございました。
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