あなたはだれですか? Conversations with God
人は誰しも、どこの誰だかわからない人と繋がったり、その人を支援しようなんて思えない。であれば、自己紹介欄に『私はこう思うんだ』と、いくら丁寧に書こうとも、自分のコミュニティは膨らみようがない。ならばいっそ、言葉ではなく行動や実績をもって、自己紹介に変えるのがいい。
でもだって、どうすれば?
だから、そこで立ち止まったり考えなくていいということ。
つまりは、「それが何になる?」とか深く考えず、今自分ができることを素直に受け止め行動し、それを日々繰り返しているうちに、外堀が埋まり自分という個が浮き彫りとなって、それが自己実績となるということ。
ゆえに、行動の内容やその結果など、はじめからさほどの意味を持たないのだ。とはいえ、いきなり何をすればいいかなんてわかる筈ない、だったらまずは周りの真似から始めればいい。
すべてはそうしてはじまるのです。
「でも」「だって」は、今日でもうおしまいだってこと。
今やりたいことが、明日やりたいとは限らない
まずは自分の喜びのために生きていいんだよ。
誰かのためにはあとからでもいつでもできるから。
いい?
自分を下げるな、安売りするな、遜るな!!
あなたは大丈夫なんかじゃない!!
だからこれは魂からの命令。
さて、今から146億年前に自分で起こした奇跡の話をしましょう。
まずはじめに全部があって、全部とは魂や神と呼ばれる存在、やがてそこから自分とそれ意外とに別れた。この関係性を『主体・客体』の相対と呼ぶ。
何故?
でなければ自分がわからないから。
自分とは、他との比較からしか認識できないから。
私たちは自分を知るため、意図的に分かれたのです。そうして生まれたのが、私たちが元居た目に見えない精神世界とは別の物質世界、つまり目に見える世界。
とりわけ物質世界誕生のことをビックバンと呼び、その世界のことを宇宙と呼ぶ一方、目に見えない精神世界のことを心と呼ぶことにしたのです。
つまり私たちは、自分を知るためにビックバンを起こし二つに分かれ、目に見えない世界から目に見える世界を体験することにしたのです。
やがて物質世界が広がり様々な体験を繰り返すうちに、また新たな疑問が湧いてきました。
それは光の対極に現れた陰について。
元は光そのものであった私たちは、正反対の存在について知りたいとより強く思ったのです。
神様の思し召し
あえて二元性を生み出し、光と闇、陰と陽、ポジティブとネガティブ、男と女に別れた私たち。
意図的に相反する存在と向き合う事によって、お互いをより深く認識することができるようになりました。
その間、幾度となくぶつかり合い、否定しあい、傷つけあい、相成れぬお互いを認め合いながら長い長い年月が過ぎたころ。
ついに答えにたどり着いたのです。
そうか、私たちは『赦しをこそ体験する為に生まれてきたのだ』と。
すべては赦しのために在る、すべて赦すために起こる。
闇、悪とはそのために在る。つまり自分のためにある。
自分の責任において、すべてを赦せるかを試されていたのだ。
愛する者たちとの死別。
理不尽な事件や事故。
病気や不運。
社会や家庭内での不調和。
それらのすべては、自分が実際に体験し理解するため、あるいは自らに代わって彼らが体現して見せてくれていたのだと。
また一方で自分は自分勝手に生きているようで、それが実は自分以外の誰かの為になっていたのだと。
森羅万象のすべてがバラバラである意味も、ひと時も同じではいられない無常さも、すべては思い出すため。
いつか救世主が現れるのではない、もとは一つであったと、自分こそが全部であったと思い出す事なのだ。
生きるとは、知ることだったのだ。
九分九厘の中に咲く一輪の花、それがあなた。
では最後にそのあなたに今一度問おう。
あなたは誰ですか?