デジタルでも断捨離
毎年この時期になると少しずつ家の中の物を整理し、不必要なものはできるだけ手放すようにしている。
新たな出会いという感謝に向けて。
そうしているうちに、ネット上での人間関係にもそれは当てはまるように思えてきたのだ。
本稿はそんな私の断捨離についての思いである。
いつだって尊敬するnoteの皆様が教えてくれる
私がネット回線を自宅に引いたのは1998年頃。
当時は電話回線だった。
そんな私ですから、今更SNSに大きな期待を寄せるでもなく3年前に何げなくnoteをはじめた。
noteをはじめてからしばらくの間、当然誰彼構わず繋がりを求めていたわけではなく。自然と活動を続けるうちにだんだんとフォローしていただく機会も増え、じょじょにnoteにおけるコミュニケーションの輪は広がりました。
けれど、自然にそうしてnoteでの活動を続けるうちに、この人にはフォローをお返しして、この方は様子見………なんて、自分は何様? と思うように。それからは極力フォローバックいたしておりました。
先に述べた通り、自分に合うか合わないか取捨選択するなんておこがましい。そう思う一方、好奇心のようなものも湧き上がることで、与えられた縁を享受し続けることで何が起こるのか興味があったのもある。
が、もうそれも終わり。
元来、広く人付き合いをする人間ではありませんでした。
SNSにかける期待などはなから持ち合わせていなかったし、そもそも他人に期待などしたこともありません。
そのような私でありましたからこそ、昨今のSNSにおける自分らしからぬ立ち振る舞いに得るものも多く、学びがたくさんありました。
noteで活動を続けるうち、だんだんと『じぶんらしさ』『ありのままで』がメインテーマとなってきたようにも思え、今後も自己欺瞞の中で活動を続けるのは健全とは言えない。ここいらで初心に立ち返るのもよいだろう、そう判断いたしました。
ここ数年のnote活動において、noteはSNSなのだから広く交流しなきゃ、なんてただの思い込みであることに気づく契機となった。
そう確信に至ったのも、やはりnoteでフォローさせていていただいている皆様のおかげ様でした。
更新の通知が届き、文章を読んでいる間の幸せなひととき。
『わあ、あの方の更新だ!』との思いとは裏腹に………フォロバ100!的な方々もおられ、そうした有象無象の中を漂う内、SNSでの繋がりについてのバランス感覚をどのあたりに軸を合わせるかに思い悩む内にいつしか「私は一体なにをやってるんだろう………」と、しばしば虚無感に苛まれたり。
私も物を書くはしくれとして、表現の自由は尊重したいと思ってやまないし、自由な立ち振る舞いについての寛容さにかけての緩さは自負するところでもあり、しかしさもありなん、いかんせん時間という有限が足を引っ張るのでした。
このような心持で生きる日々の中、SNSにおけるコミュニケーションについても気忙しく思い悩む中で、自分の偽りなき感覚に立ち返る機会を下さったのも大切なフォロワー様たちでした。
………だからさようならマネタイズ、政治批判、ネガティブヴァンパイア、互いに傷を舐めあう自称かわい子ちゃんたち。いままでありがとう。
出会った偶然に乾杯し、感謝しながらお別れしよう。
お互いのこれからに幸あらんことを心から願って。
おわりに
これまでがそうであったように、これからのことはわからない。
ここ数年で私の心情が人生で最も変化したように。
noteをこれからも続けるかすらわからない。
ここ最近つくづく思うことがある。
それは、手放すべき時が来たら手放してもいいんだよということ。
時代はますます加速し、ときに混沌の様相を呈すだろう。
であるならば、自分の内からくる変化に逆らわなくていい。
従うかどうかは別として。どう従うかすら自由。
今後ますます心の赴くまま活動の幅を広げて行ければ………そんなことを考えているうちにこんな文章を書いていた。
師走の朝、どうやら今日は少し曇っている。
かじかむ手に反して、胸の奥はなんだか温かい。