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『檸檬』 梶井偽(エセ)次郎
もう今から30年も前のことである。当時大学生だったエセ次郎は、京都の大学に通っていた。
学部は文学部、それもおあつらえ向きに日本文学を学んでいた。
兵庫県の片田舎から出てきて、大都市でありながら、そこはかとない風情を残した京都の町で文士さんモドキをやるわけだから、さすがに学ランに高下駄を履いて町を闊歩するような時代ではなかったけれど、ちょっと気持ちは背伸びして、河原町のカフェーに入り浸っては、肥えていない舌で苦いコーヒーをいただくのが常だった。
今はなきそのカフェーは、ラクダの絵が看板になっていて、ちょうどエセ次郎が誕生したのと同じ1974年が創業だった。
入り口から店内がちょっとだけ半地下のようになっており、まるで自分だけの隠れ家のような落ち着いた空間が好きだったのだが、当然ながら、そのカフェーを同じく隠れ家にしていた紳士やオヤジたちが、いつものんびりたむろしているような、そんな店だった。
その店には、エセ次郎の恋人を連れていったり、就職してから先輩を連れていったりもした。それくらい、河原町では大好きな店だったのである。
店は半地下になっていたので、表通りを眺めることができる窓際の席はほんのわずかしかなかったのだが、実は道を挟んでその店の斜め向かいにあったのが、京都の「丸善」という書店だった。
その「丸善」も一時期なくなってしまい、「すわ京都から丸善がなくなるなんて!」と京都じゅうの文士もどきたちを慌てさせたのだが、幸いなことにまた場所を変えて、京都「丸善」は復活しているので、一安心である。
京都から、「丸善」がなくなってはいけない。それは暗黙のお約束となっている。もちろん、そりゃあ丸善さんの側にとっても、経営のことやらいろいろ裏事情はあるだろうので、一方的に「なくなってはいけない」と言われても大きなお世話なのだろうが、それでもなくなってもらっては困るのである。
なぜなら、「丸善」には「檸檬」が置かれなきゃならないからだ。
梶井基次郎が、小説「檸檬」を発表したのは大正14年のことだったそうだ。
あらすじはシンプルだ。金もなく得たいのしれない不安を抱えた主人公の”私”は、当時西洋からやってくる最先端の舶来品や洋書が置かれた「丸善」が好きだった。しかし、そのハイカラさ、明るさは陰キャの”私”にとっては、憧れと同時に避けたくなるような気持ちを抱かせる。
そこで”私”は、八百屋で買った色も鮮やかな「檸檬」を丸善の本の上に置きっぱなしにして、何食わぬ顔で外へ出る、という話である。
心の中で、あれが大爆発を起こす爆弾だったら!なんてことを想像しながら。
さてみなさん聞いてください。
日本中の文士もどきは、そりゃあほぼ全員が陰キャで、何がしかの陰鬱なものを抱えながら生きていて、そうでもなけりゃあ文学なんてものを志さないのであるから、梶井基次郎のように檸檬の一つでも置いて、その鮮やかさ、みずみずしさ、ずっしりと感じる重さに心の不安をゆだねて、できることならドカンと吹っ飛ばしてみたいものだ、と思っているのである。
だから、これまた今ならアニメや漫画の「聖地巡礼」なる、元祖聖地とも言うべき「京都の丸善」がなくなってもらっちゃあ、困るのである。
余談ながら、梶井基次郎が檸檬を買った八百屋も既になく、その檸檬を置いて去った本来の「丸善」も場所が変わっているという。だから、カフェーの斜め向かいにあった「丸善」ですら、梶井基次郎が檸檬爆弾を仕掛けた場所ではないのであるが、ちっちゃいことは気にするな。
いやいや、それほどまでに象徴としての「京都の丸善」は重要地点なのである。それは京都じゅうの文士もどきが心の拠り所にする聖地であり、日本中の文士もどきが聖地メッカのごとく、「一生に一度は檸檬を置きにいきてえなあ!」と思うような場所だ、ということだ。
(実際、京都丸善が閉店さわぎを起こすたびに、積まれた本の上にはおびただしい数の檸檬が置かれるという)
はてさて、ニセ次郎はというと、高校の教科書で基次郎の「檸檬」は習ったものの、実際に京都で文士もどきをやっている時には、せいぜい小説「檸檬」のことをたまに思い出すくらいで、自分もやってみるような度胸はこれっぽっちもなかった。
それでも、就職してまったく違う土地へ引っ越してしまっても、たまには半地下のカフェーのことを思い出して、京都へ来る機会があればわざわざコーヒーを飲みに行ったりもしたものだ。
そして、帰りには京都の丸善へ寄って、買いもしない洋書やら、舶来の万年筆やらを眺めては、「ええのう、ええのう」と訳知り顔で昔の文士もどき気分を思い出すのだった。
あれから30年ほどが過ぎた。
時代は移り変わり、梶井基次郎の「檸檬」が教科書に採用される数も減ったことだろう。その代わりに米津玄師の「Lemon」が音楽の教科書に採用されるようになったらしい。時代というやつだ。
学生の町・京都も陰キャな文士もどきはすっかり影をひそめ、ウェーイ!なパーリーピーポーが闊歩するようになって久しい。雨が降り止むまでは帰れないどころか、アーケードの下を濡れずに歩けるのだから、河原町は最高だ。
それでも、エセ次郎だけでなく、日本中の元文士もどきは、「檸檬」を忘れない。
だから、本家「丸善」が目も覚めるような檸檬色の万年筆を発売したときも、限定1000本がすぐに完売したという。
もちろん、この万年筆は梶井基次郎の小説がモチーフになっている。
丸善さんも基次郎のしかけた爆弾檸檬をよほど根に持っているのか、創業130周年、140周年、150周年と執念のように万年筆「檸檬」を何度も発売しているから、もういよいよ許してやってもよいのではなかろうか。
しかし、あいかわらず本家の基次郎のように、金もなく舶来品を買えるような余裕もない文士たちは、雑誌の付録についてくるレプリカの万年筆「ミニ檸檬」を買い漁っている。
エセ次郎とてそうである。2005年に雑誌「ラピタ」についてきた「ミニ檸檬」を買った。2022年に雑誌「サライ」についてきた「ミニ檸檬」も買った。
たぶん何年後かに、どこかの雑誌についてくる「ミニ檸檬」だってまた買うだろう。丸善創業160周年記念に登場する可能性が高い、高級万年筆「檸檬(第四弾!)」は買えないくせに、である。
エセ次郎は、今日もニヤニヤしている。手に入れたばかりの「ミニ檸檬」を片手に、河原町の丸善のことや、カフェーのことを思い出しているからだ。
雑誌「サライ」の付録になっている「ミニ檸檬」には「ラクダ」のイラストが刻印されている。
![](https://assets.st-note.com/img/1653902034269-cBnGxmOU0d.jpg?width=1200)
雑誌名の”サライ”とはペルシャ語の「宿」もしくは「家」のことで、砂漠を通称で行き交うアラブの商隊をイメージしているのであろう。
だから「ラクダ」のイラストがついているのだ。
ああ、そうそうエセ次郎が入り浸っていた河原町のカフェーの名を書いておくのをすっかり忘れていた。
その店の名は「キャラバンサライ」。
エセ次郎は、いっそうニヤニヤと、若かりし文士もどき時代のことを思い出すのだった。
(おしまい)