私が少女小説家になりたかったのは
さっきから、にやにや笑いが止まらない。
今日はモフ曜日、いや、木曜日である。最近、SNSで目にする機会の増えた鳥さんやうさぎさん、わんこやにゃんこの影響で、木曜日は「モフ曜日」と頭の中で変換される。「もふ」でもよし。「モフ」だと夏毛、あるいはまだなんとなく換毛期。「もふ」は冬毛の季節という気が、勝手にしている。
さて今朝、起きてマンションの掃き出し窓を開けると、金木犀が香った。私の住む家では今季初である。
いつまでも暑くて、汗ばむような日が続いていても、季節は巡る。
私はまたにやりとして、カフェテーブルの上の荷物を見つめた。
———来た。
荷物には「Czech Republic」と記してある。
想像してみて欲しい。金木犀の香るモフ曜日にやってきた、チェコ共和国からの荷物を。
いずれかの文学フリマで手に入れようと思ったのだが、でもやはり、2巻同時にお迎えしたかった。そしてまとめてゆっくり、じっくり読みたかった。
先日、思い切ってえいぃっ!と購入した所存。
KaoRuさんのことは、実はかなり前から存じ上げていたが、なんせ雲の上のお人だと思っていたので、なんとなく遠巻きにのぞき見していた。
カフカ、というタイトルにぐっと心を捕まれていたが、そのときたまたま開いた記事を三行ほど読んで、「あ。これは最初からしっかりまとめて全部読む」と決めた。
ただ、なかなか「その時」が訪れない。
文学フリマで「つる・るるる」さんと「とき子」さん、「いぬいゆうた」さんがKaoRuさんの本を扱っていることを知った。どなたかにお願いしたりすることも考えた。が、あれこれ悩んで、いや、やはり直接買うことができるのは、BOOTHのネット店舗であろう、と思い定めた。
そしてついに、本日この秋の香りがほのかに漂う日に、お迎えすることになったのだった。
ぱらぱらめくり、あとがきや橘鶫さんの解説を読み、本編を読み始めて、「やばい。プリングルスだ」と思った。
プリングルス。ご存じだろうか。「PringlesはP&Gによって開発されたじゃがいもおよび小麦で出来た成型ポテトチップスの商標である」(byウィキペディア)。キャッチコピーは「開けたら最後。You can't stop」。
それな!である。別に「やめられないとまらない、かっぱえびせん」でもいいのだが。同じことだが、まあ今回はプリングルスだった。
橘鶫さんも「危険だ」と解説に書いていらして、まさにその注意書きのとおりである。今日はこれから用事があり、危険も危険。仕方なく秋の夜長にもう少し取っておくことにして、私はもうひとつのにやにや案件を手元に引き寄せた。
こちらは十日ほど前に我が家に羽ばたいて飛んでいらした鳥様である。
こちらの画集には、つる・るるるさんととき子さんが解説を、さらにはKaoRuさんも挿絵を寄せていらっしゃる。一級の贅沢品だ。
橘さんは巻頭に「イヌワシは私にとって特別な鳥である」と書いていらっしゃる。実は私もイヌワシにはひとかたならぬ思いがある。
香港の作家、金庸の『射鵰英雄伝』にドハマりした時期があって、この壮大な物語の舞台は宋時代の中国全土とモンゴルなのだが、ふたりの主人公のうちモンゴルで育った方の郭清は、なんとイヌワシをペットにしているのである。
イヌワシは立っているだけで2歳児ほどの大きさがあり、翼を広げると2mを超える。それがペット。『射鵰英雄伝』がどれほど壮大なファンタジーか、察して余りある象徴的な鳥である。イヌワシを描き続ける橘さんが、私にとってどれほど憧れの存在かも、わかっていただけるかと思う。
KaoRuさんの『その名はカフカ』の解説を書いていらっしゃる橘鶫さんもまた、私にとっては殿上人のおひとりで、遠くから眺めるだけで「ほぅ」とため息をついていたのであるが、最近、X(旧Twitter)を通じて少しご縁が出来、ちょうど初の画集を刊行されたというのでこれもまたご縁と即座に購入した。ご縁とはタイミングのことでもある。
さて、ここでいきなり遠回しな話をさせていただく。
酒井順子さんの本に『平安ガールフレンズ』と言う本があるのだが、その中で酒井さんは、清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道綱母、菅原孝標女などを取り上げて「平安時代の作家で誰と友達になりたいか」談議をしている。
それについては「はてな」で色々書いたのでここでは割愛するが、ざっくり言って私は菅原孝標女にシンパシーを感じている(感じておきながら私は『更級日記』だけまともに読んだことがない。あ、もちろん現代語訳で。どの本も原本は読んだことがない)。
『更級日記』の著者、菅原孝標女は、都の内裏で繰り広げられる殿上人のあれこれを、「ほぅぅ」と思いながら憧れつつ「ま、私は『源氏物語』で言うなら空蝉か浮舟あたりになれるかも」と思っている。彼女がそう思う理由は色々あるのだが、この、菅原孝標女の「憧れ」は物語の世界、芸術の世界に魅せられた少女の憧れ、なのである。それは、何回か前の朝ドラ『らんまん』でのちに神木隆之介演じる槙野万太郎の妻となる浜辺美波演じる娘時代の寿恵ちゃんが、父が残した曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読んで「現八と信乃(登場人物)尊い!」「 馬琴先生天才すぎる~!」「馬琴先生っ!」と悶えるのに似ている。尊敬と憧れと妄想が入り交じり、世界観に入り込み、作品と作者への思いが溢れてしまう、あの感じ。
迂遠だ。明らかに伝わりにくい。でも私の中ではまさにそれで、それは私がかつて「少女小説」に憧れていた日々を髣髴とさせるのである。
迂遠な話のさらに余談だが、『南総里見八犬伝』を書いた曲亭馬琴の物語が、映画化された。近日公開である。
いやこれ絶対観る。観るに決まってる。
馬琴先生が書き、葛飾北斎が挿絵である。とんでもない第一級、超一級のエンタメ、それが『南総里見八犬伝』だ。馬琴先生が視力を失ったこともあるが、続きを待つ読者の熱い思いが溢れすぎ、長すぎて最後グダグダになったところなんて、集英社のジャンプ漫画の末路とそっくりである。
当代きっての才能のぶつかり合い。
しかも弩級のファンタジー。
アクション活劇あり、ラブあり、冒険ありの血沸き肉躍る展開。
江戸期に江戸に生まれていたら確実にハマっていたはずだ。
前世の私、そうでしょう?
馬琴先生は書籍の収入だけで生活した日本最初の商業作家だそうである。
もはや、日本人の原点がここにあると言っても過言ではない、と私は思っている。クールすぎるほどクールなジャパン、それが『南総里見八犬伝』。
私は中学時代、薬師丸ひろ子と真田広之主演の『南総里見八犬伝』を観に行き、ダイジェスト版『南総里見八犬伝』(当時は子供が手に入れられる範囲で全編収録の本はなかったと思う)にハマったくちである。ああその真田広之もついに『SHOGUN』でエミー賞。こんなときばかりは、長生きはするものだと思ってしまう。
はいはい。どんどん話が逸れて行ったが、とにもかくにも、私は金木犀香る十月に、ふたつのとんでもない殿上人の極上エンターテインメントを味わっているのである。
さきほど「少女小説」に憧れていた日々を髣髴とさせる、と書いた。
私はようやく最近になって、自分が「少女小説家」になりたかったのだ、ということに、気が付いた。
いまは「ライトノベル」に吸収されてしまった「少女小説」。「少女漫画の小説版」、だと思っている人も多いけれど、『少女小説家は死なない』を書いた氷室冴子さんに代表される少女小説家全盛期に思春期だった私は、「少女小説というジャンル」に大いに影響を受けた。
当時、若くしてデビューした作家が多かったため「少女が書く小説」と「軽く」目された面もあったと思うのだが、内容はいわゆる「ジュヴナイル(青春小説)」「等身大ファンタジー」である。氷室冴子さんがエンタメ寄りなら、文学寄りなのが児童文学作家の上原菜穂子さんや萩原規子さん。他にも森絵都さんや唯川恵さん、恩田陸さん、有川浩さんも、系譜に連なる、と勝手に思っている(個人の感想)。
長い間「作家」になりたい、と思っていたわけではない、と思い続けていた。変な否定文だがまさしくそういう感覚だった。
読むのも書くのも好きだし、小説はなにより大好きだ。でも方向性として鯱張った「文学」より確実に「エンタメ」派。なんとか賞をとってデビューして、といったことに全く興味がなかった。しかしかといって、今現在本屋さんに平積みされているようなラノベを書きたい、読みたい、という気持ちも湧き起らなかった。というかむしろ、小説のコミカライズは好きだけれどコミックスのノベライズにはあまり面白さを感じなかった(飽くまで個人の感想)。
なんか全部違うんだよねと思っていたのだ。
そしてごく最近、「あ、そうか。私がなりたかったものは絶滅してしまったんだ」と思った。だから「なりたいものがなかった」のだと。そして、それを認めるまで、私はどうやら前に進むことができなかったような気がする。
「文学」の権威などなんぼのもんじゃい、とどこかで思っている。
どうやら私には、いわゆるロックでパンクな気持ちがあるらしい。笑
Camyuさんが今朝、『ロックは死んだ?…ただの音楽好きのひとりごと。』という記事の中で「瀕死かも知れないけど、ロックが絶滅することはないだろう。どれだけニッチになっても、私がヨボヨボになったとしても、ロックを聴き続けたいと思います。」と書かれていた。
そうかあのころの「少女小説家」になりたかったのなら、まさしく私は絶滅種で中年のクソだ。ぴったり合う「ジャンル」はもうない。だがしかし、クソの部分を持ちつつ「少女小説」を死ぬまで擁護し続けるんだろうなと思う。もちろん、当時の「少女小説」の全部が良かったわけでは、ないのだが。
目標が絶滅してしまった後の日々は「そういうのではなく、もっとなにか別のもの」「いまはないけれど、いつか形になるもの」を模索してきたように思う。
少女小説のエッセンスを持った、大人の小説。児童文学でもなく、ジュヴナイルでもなく、ヤングアダルトでもない新しいジャンル。
どうやら今私は、名前のない地平にいるらしい。
そしてその名前のない地平には、沢山の仲間がいるような気がしている。
自分の作品に『春告鳥シリーズ』がある。
こちらは1巻ごとに完結しているが、続き物で、6巻セットになっている。
先日実家に帰った時、私の本棚には氷室冴子のコバルト文庫『なんて素敵にジャパネスク』11巻がずらりと並んでいた。そしてその近くには、夢枕獏の『陰陽師』や、畠中恵『しゃばけ』シリーズがちらほら、見える。『陰陽師』は23巻、『しゃばけ』シリーズは25巻ほど既刊らしい。
それを見ながら、「そうか、私が目指していることはこれか。別に目新しくない」と思った。
本を作りながら、「〇巻」になることに、なんというか、申し訳なさみたいなものを感じていたのだが、気にする必要はなかったかもしれない、と思う。「文学」みたいなことを気にすると、こういうことが邪道に思われてしまうんじゃないかということが私を苦しめていた。
自分で作ってるんだから、自由にやっていいはず。
『春告鳥シリーズ』には、各巻、すべてに鳥の名前がついている。
そのことを、僭越ながらそっと橘さんにお伝えしたところ、「『千鳥』以外は、描いたことがありますよ」「半分くらいは画集に載っておりますけれど。春告鳥と、小夜啼鳥(なくが漢字違いですが)は、絵のタイトルもそのままです。笑」と、なんとこんなに素敵にまとめてくださった。
憧れの人からの思いがけないプレゼントに、悶絶したことは言うまでもない。橘鶫さん、ありがとうございます!!
最後にタイトルの「私が少女小説家になりたかったのは」は、さだまさし『童話作家』のオマージュ。
著作権の関係上、全文は載せられないが、詞の主人公は、失恋をきっかけに童話作家になった女性の物語。「あなた」を「少女小説家」に置き換えると、私のこれまでが見えてくるように思う。
なんか、薄らぼんやりと「自分、アホだなあ」と思った。
ちょっと笑えてきた秋の朝だった。
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