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言葉あれこれ #2

 言葉は、不自由だ。
 伝わるようで伝わらない。
 伝えるための「道具ツール」なのに、うまく伝わらないことが往々にしてある。

 「私」の「りんご」と「あなた」の「りんご」が一致しているとは限らない。自分のりんごがどんなりんごなのかは、言葉を尽くしてディテールを説明しない限り、相手には伝わらない。100人いたら100人の頭の中のりんごは違う。

 プラトンは、いちおう、原型的な概念としてのりんごは頭の中にあるとして、それをイデアと呼んだのだけど。

 とにかく言葉を使うこと、文章を書くということは、自分の頭にある概念やイメージをどれだけ広く一般に想起させるかということに尽きる。
 そしてそれは、想像しただけでとても難しい。

 りんごを見たことも聞いたこともない人にどうやってその存在を「想起」などさせられるだろう。それをするのが作家と呼ばれる人たちだ。トンネルを抜けるとそこは雪国で、金閣寺は炎上する。雪国を見たことが無くても、金閣寺の炎上に臨場したことがなくても、他人の頭に世界を描けなければならない。

 コロナ禍、言葉の定義というものについて真剣に考えた。
 人によって「言葉」をどう解釈し使っているか、というのもまた千差万別だと思い知らされた。単語、慣用句、言い回し、諺。
 正直コロナ禍前はそれほどとは思っていなかったのだが、時疫で思いもかけない形で意識させられた気がしている。

 覗いていただけのTwitter(いまはX)でも、当時はなんだか揚げ足ばかりとる人がとても多くなっていた。文章の中のほんの一部を切り取って拡大解釈したり、中傷や攻撃の意図のない単語を悪意と受け止めたりしている人も沢山いた。

 専門家と呼ばれる人がメディアに登場して、色々話してくれるのだけど、一般市民の私たちは、正直彼らがなんの専門家なのかわからないまま、垂れ流しの情報に晒されていたと言ってもいい。臨床医なのか、薬学者なのか、疫学者なのか、病理医なのか、ウイルス学者なのか、公衆衛生の役人なのか、小児科医なのか、公人なのか私人なのか。テレビは彼らの背景などどうでもよく、医師免許があるなら誰でもいいような感じの扱いだった。特に一般市民が医学と疫学の区別がつかないせいで、疫学者が過剰な批判をされていたことは記憶に新しい。

 一次情報が外国語(主に英語)ばかりだったのも良くなかった。情報は刻一刻と変わるのに、まともな一次情報をきちんと選別して読解することが、私を含め一般の日本人には難しかった。ネットに煽られ、フェイクに踊らされ、右往左往した上に、世間の同調圧力は遺憾無く発揮されていた。気がつけば友達が陰謀論を信じていたりして、親戚や友人と疎遠になった人も少なくなかった。

 言葉の無力を感じた月日。

 おそらく専門家は専門分野の知識を話していたのだろうが、一般人とは言葉の感覚、概念、定義が違っていたのだと思う。普通の人が普通に知りたいことを、的確に説明してくれる人がいないと感じる毎日だった。

 人はその情報が正しいか正しくないかより、身近な人や好きな人の言うことを信じるものだ。無名の人より名の知れた人や肩書のある人を。情報を精査するには材料もなさすぎた。

 言葉を使って何かを表現したり、情報を伝えたりすることに困難が生じていたのは確かだと思う。アーティストの嘆きは、仕事が激減したことだけではなかったのではないだろうか。手のひらから砂がこぼれていくような無力感。伝わらなさ。

 当時私が苦痛を感じていたのも、何より言葉の齟齬だった。傷つけないよう、傷つけられないよう、言葉を選んだ。それでも言葉は時に凶器になって私たちに襲いかかった。私たちの心はまるで丸裸にされた兎のようにいつもヒリヒリしていたように思う。

 今、事態は収束に向かっていて、人々もある程度冷静さを取り戻し、言葉の断絶やディスコミュニケーションの事例も以前よりは起きにくくなっていると感じる。それには、心底ほっとしている。

 そもそも、言葉のやりとりや話し合いには、双方向に良好な関係というのが必要条件だとも思う。反目していると話し合いができないし、自分が意図した意味を曲解して受け止められることもある。「私とあなたとどちらが正しいのか」と思ってしまいがちだが、おそらくどちらにも正誤はない。同じ言葉を、好意を持っていれば良くとる。攻撃的な気分なら悪くとる。心を込めたからと言って、必ずしも相手が汲み取るとは限らない。

 だから文章より動画と言う人がいるのも納得だ。私もできれば世界の要人には原爆資料館を見に来て欲しいと思う。百聞は一見に如かず。視覚が言葉を易々と凌駕してしまうことというのがある。「現実に起こった事実」でさえ、他人から他人へ、言葉だけで確実に伝えることはむずかしい。同じ言語であっても。

 自分の頭の中の概念や知識や気持ちを、フラットに中庸に、誰かにちゃんと伝えるというのは高度な技能だ。医者だからできるものではない。文筆家にも得手不得手があるだろう。言葉で正確に、正しく伝えるために「私は○○をこのように定義して使っています」とわざわざ断っていたらきりがないし、相手と確認し合ってから会話するシチュエーションなどない。文章を発するときは特に一方通行になる。

 言葉と向き合う時、時折虚しさが心をよぎる。
 それでも伝わると信じて、言葉に対する感覚を鋭敏にして、選び調整していくしかない。失敗もしながら、それでもあきらめずに。

 言葉とはまったく、シビアなものだと思う。







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