人間の殻 [私たちを取り巻く常識という壁]
大学入試を代表する試験で、奇しくも (くしくも) 同じテーマが扱われた。
偶然なのか、必然なのか。
真偽は不明だが、「人間の殻」というテーマが、現代日本社会における最大の論点のひとつであることは間違いない。
[1]東大現代文 「壁」
フランス語を学ぶ筆者が、その学習過程の中で新たな「自分の殻」を身につける喜びを綴って (つづって) いる。
日本語の「殻」を脱ぎ捨て、フランス語の「殻」を新たに纏う (まとう) ことで、今までの自分とは異なる「新たな自分」に生まれ変わることができる。
言語は「思考の根本」であり、「その人そのもの」であるからだ。
[2]京大現代文 「殻」
京大でも同趣旨の文章が出題された。
こちらはロシア語学習の話であるが、趣旨は全く同じである。驚きだ。
[3]共テ小説 「縁 (ふち) 」
こちらは語学の話ではないが、東大・京大と同様に「自分の枠」がテーマとなっている。
主人公の女性は「売れない役者」で、幼い頃から多くの役を演じることを得意としてきた。
いわゆる「自分の枠」にとらわれず、いろんな「枠」を自分に当てはめて楽しむ。
一般に、人はその日常生活において「男性・女性・おとな・子ども・日本人」といった特定の「自分の枠」を持ち、その枠の範囲内でのみ物事を感じて思考する。
彼らは「その枠」から決して出ようとせず、そもそも「その枠」の存在すら認識することなく、「その枠」の中で平凡な日常生活を送り続ける。
そういう「平凡な人々」が大多数を占める現代社会において、主人公の彼女は「異色の存在」として、周りから特異な目で見られて忌避 (きひ) される。
彼女には「自分の枠」がなく、いわゆる「世間的なもの」に対する何のこだわりも偏見もなく、自分を自由自在に伸縮させ、無限に自己を拡大させることができるからだ。
彼女のその「形のなさ」や「大きさ」に、周囲の人間は恐れ慄き (おののき) 、彼女を異端扱いする。
「自分の枠」とは何なのか、深く考えさせられる作品である。
[4]人間失格 「殻」
最後に、こちらを紹介する。
主人公の青年「葉蔵 (ようぞう) 」は、周りの人間の「殻」に恐怖しながら生きている。
自分以外のいわゆる「人間」は、各々 (おのおの) それぞれが「自分の殻」をごく当たり前のものとして自然に纏い (まとい) 、その殻に従順に、その殻の存在を全く疑うことなく生きている。
主人公の葉蔵は、そういう「人間」の動物本能的生き方に対し、常に恐怖を感じながら生きている。
その「殻」はどこからきたのか。
その「殻」は自ら望んで身につけているのか。
その「殻」はなぜ自分にないのか。
そういった疑問を誰にぶつけることもできず、葉蔵は悶々 (もんもん) と苦悩する。
[5]最後に
この「枠」や「殻」は、私たち日本人にとって特に根深い、根源的な、人間存在の究極を問うテーマである。
「枠にとらわれている人間」は、この主旨を全く理解できないであろう。
それが「枠」である。
このような人間存在の究極を問う文章が、主要大学入試でこぞって出題されたということは、「枠にとらわれない人々」からの強いメッセージであると考えて間違いない。
「分かる人」には分かるが、「分からない人」には永遠に分からない。
私のこの文章も、どれだけの人の心に届くのだろうか。
この文章の真意を理解できる「枠のない人」こそが、これからの社会の真の主役である。
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