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人類皆面倒、なのかな
「俺が面倒くせえって思ってきた奴らって実は捨てたもんじゃないんじゃねえか」
ぼくが翻訳した台詞だ。
ぼく自身、周りから“面倒くせえ奴”だと思われている気がする。
変なところにこだわりがあるし、余計なことをするし、毒にも薬にもならないアイデアしか出せないし。
テンションが高いかと思えば、急にローテンションになったり。
多分、ぼくとコミュニケーションを取ると疲れるのだと思う。
そうは言っても、話す内容が仕事に関わることであれば話さざるを得ないし、相手が面倒くさそうにしてても、申し訳ないとは思いながらもコミュニケーションを取る。
自分自身で面倒だなと思うのは、相手が面倒に感じてるのだろうということを敏感に感じ取ってしまうことである。
もしもそこに対して鈍感であれば、何も気にせずコミュニケーションを取って、自分だけがただ満足できる。
でもぼくを面倒だと思っているひととのコミュニケーションはぼく自身も傷つきながら行われていくことになる。とてもしんどい。
これが自己肯定感の低さから来る悩みなのか、自己肯定感が高まったとしても起こりうる悩みなのか。何はともあれ、要領よくコミュニケーションの回数を減らす努力はしたほうが良いのかもしれない。
一方でぼくが面倒だなと思うひともいる。
29年間生きてきて、本気で面倒くさいと思ってしまったのが5人くらいいただろうか。
その5人というのはやることなす事全てのリズムがぼくには合わず、可能な限り話すこともしないし、近づくこともしなかった。
でもそういうひとに限って、余計なタイミングで余計なことをするのである。
同じようにぼくを本気で面倒くさいと思っているひともいるのだと思うし、それに気づかず、余計なタイミングで余計なことをしてしまっているのかもしれない。
多分、ぼくが本気で面倒だなと思ってきたひとたちはぼくの持たぬリズムを持っている。
「俺が面倒くせえって思ってきた奴らって実は捨てたもんじゃないんじゃねえか」
成長のヒントがそこにあるのか。平和のヒントがそこにあるのか。
この台詞を聴くことができるのもあと数回。
舞台上で何かが分かる瞬間が来るだろうか。
何か分かったら、また文章に起こそうと思う。