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『逃げてもいいんだよ』という呪文
時々耳にする言葉、『逃げてもいいんだよ』。
今の環境がつらいなら、逃げたっていいんだ。
心身に支障をきたしてまで頑張らなくていいんだよ。
そんな時は、逃げるんだよ。
ふとした時に、そんな言葉を聞くことがある。
この言葉には心の底から賛同したい反面、ちょっとした違和感を感じる時がある。
心身に支障をきたしてまで、無理をすることない。
本当にそう思う。
今まで何度か心身に支障をきたしたことがあったからこそ、首がもげてしまうんじゃないかってくらいには頷きたい。
だけれど「その時の自分」も「振り返ってみた今の自分」も、別に逃げ出したいわけじゃなかった気がする。
なんとなく『逃げる』って言葉そのものに、ネガティブな要素が練りこまれているように思えてしまう。
全面的にネガティブを謳っているわけではなくて、隠し味のようにこっそり練りこまれていて、気付く人には気付くような感じだ。
あまりにも卑屈になりすぎているのかもしれないけれど、自分の選択肢にネガティブな要素を加えたくないからこそ、少し敏感になってしまう。
例えその要素に気付かなかったとしても、アレルギー反応が起こってしまうように、気付かなかったとしてもネガティブな力に反応してしまうことだってある気がするのだ。
だからこそ自分が納得して選んだものを、逃げていいよと差し出された抜け道のように捉えられるのは、どうしても違和感を感じてしまう。
辛いのは自分だけではなくて、
自分ができないことや、生きていけない環境でも、うまく立ち回れる人はいて、
それでも死にたいと思うくらいなら、逃げてもいいんだよって、
そんなこと言われたとしても、人生は最終的には自分だけのもので、いつだって1人で抱えている。
各々1人1人が自分の人生を抱えて、その中で人同士が巡り会って、友人になったり恋人になったりしてお互いの人生に華を添えていく。
それでも、いつだって自分1人の人生だけを抱えて生きている。
誰かの代わりに、腹を満たすこともできない。
感情を寄せて泣くことができても、痛みをもらうことはできない。
病気になったり、事故に遭って死んでしまうとしても、誰かに代わってもらうことなんてできやしない。
だから、誰かと運命共同体みたいに「あの人はできるのに…」なんて、自分と比べて落ち込んだり、みんなが生きていけている環境が合わないだけで『逃げている』ように感じる必要ってないんだと思う。
いつだって、自分が生きているこの環境が自分自身のステージなんだ。
だから逃げてもいいよと言われると、逃げたいわけじゃないんだよ…と立ち止まってしまいたくなる。
逃げたいんじゃなくて、ちょっと違う景色を見たいだけ、
ちょっと散歩して、新しい空気を吸いたいだけ、
ここじゃない違う場所に行ってみたい、ただそれだけ。
逃げ出したいとか、死んでしまいたいとか、そういうことではなくて、今いる環境じゃないところへ行ってみたいなぁって思っている。
それに加えて、できたら逃げたって言葉を使ってほしくないだけだよ。
そんなことを思ってしまう。
日常に溢れている言葉って、気付いたらちょっとした呪文のようになっていることがある。
逃げてもいいんだよ。
そう言われると、まるで逃げたみたいになってしまう。
泣いてもいいんだよ。
そう言われると、まるで泣きたいみたいに見えてしまう。
そうじゃないんだよって思うけれど、代わりの言葉があるわけでもなくて、相手の目には自分がどんな風に映っているかなんて分かるはずもない。
相手の目や、相手の感情だって、その相手のものなんだもんなぁと思いながら、今日も頷くことしかできないままこの場所で生きている。
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— Aina ☺︎ @英語勉強してる人 (@yolo_ai_) July 29, 2020
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