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朝を愛することについて

朝起きて、カーテンから部屋に漏れる光がまだ淡い。夏は太陽の光だとわかるくらいのはっきりとした光が漏れ出し、カーテンを開ければそこはもう完璧な朝だった。

けれど秋や冬は違う。

早起きをすると完全な朝ではない。空も街も空気もまだ少しだけ夜を残したままでいる。それがたまらなく気持ち良い。朝になる瞬間に立っていることがたまらなく嬉しい。なんて贅沢なことだろうと思う。

街を歩いているうちに、少しずつ完全な朝になる。

朝の散歩にはだいすきな音楽でさえ必要ない。iPhoneは寝室のテーブルでまだ眠っている。耳まで冷えるような冷たい風、少しずつ存在感を強く放ちはじめる朝日。街が動き出す雰囲気、その繊細で凛とした音をちゃんと聞いていたい。

彼と10月に引っ越してきたこの街は、以前住んでいた街よりもさらに田舎に寄り、いつ見上げても空が広い。季節の移ろいどころか、一日の中にある時間の移ろいを感じられるような景色が瞳に落ちる。

朝は特別空が自由だ。昨日の夕陽に飲まれたすべての悲しみを一晩で溶かしたような自由で可能性に満ちた空。私が私として生きていくためにはこの空がなくてはならない。

次第に街を歩く人や車が徐々に増えていく。普段なら雑音になるようなエンジンの音さえ、朝に聞くと街が動き出したことを肌で感じられてわくわくする。

朝の散歩の最中頭をフル回転させて悩み事を解決しようとする、のようなことはない。そもそもまだ眠たい頭にそんな働きはできない。

朝の散歩をしている最中、私は目の前にあるものや耳に入る音、今起きていることに意識が向く。常に頭の中で会話していたり考えている私にとって、頭を空っぽにできるこの時間はとても貴重だ。

ただひたすら朝に身を任せていると、不思議なことに頭の中がクリアになり心が身軽になる。何かをしようと必死になると空回ってしまうことは多いから、こうしてゼロになる瞬間がきっと誰しも必要で、人によってはそれがどんなときなのかは全然違っていい。

私にとってそれは朝の光を浴び、そのなかをひとりで歩くことだけれど、何が心地良いと感じるか、どんな時を自由とするかは人それぞれ違う。

湯船に浸かることだったり、ひたすら眠ることだったり、読書や映画、趣味に没頭することだったり、友人と会うことだったり、記憶を失うまでお酒を飲むことだったり、お気に入りのカフェでぼうっとすることだったり、スイーツを食べることだったり。

なんだっていいしいつだっていいしどこだっていい。自分が一瞬でもゼロになれる自由なときを持つと少しだけ浅くなった呼吸が楽になり、全身に酸素がめぐる。

完全な大丈夫の状態になろうとすると自分が苦しくなるから「まあ、もうちょっとやれるかもな」そのくらいでいい。そうやって自分を騙し騙し生きていくくらいの立ち直り方でいい。

***

昔大失恋をしたとき、好きな人とさようならをしてはじめて迎える朝が怖かった。新しい朝にもうあの人はいないんだと自覚することが苦しかった。そうして一睡もできないまま朝を迎えた日があった。

けれど、朝はそんなときでさえ美しく自由だった。

ずっしり重たい頭と泣き腫らして熱くなった瞼でぼろぼろな状態の私でさえ朝日は等しく照らした。朝日は、朝一の風は、やっぱりどんなときもどこまでも自由だった。私はその日、また少し泣いてそのまま静かに眠った。

失恋をした友人に「お腹は空いてる?」と聞いたら頷いたのでとりあえずこれをと思い焼いてきたパンを渡したら、泣いたままその場で食べて「おいしい」と震えた声で繰り返した。

涙と一緒に食べたそのパンの味を、彼女がいつか思い出して、そのとき少しだけ背中を押す力になれたらいいなと願った。


私にとって、繰り返し新しい朝がくることが救いであるように、彼女にとってそしてこれを読んでいる誰かにとって、救いとなる細やかな何かがあればいいなと思う。


目を背けたくなるような眩しい太陽より影の中に光を作る朝日に惹かれるように、両手ですくって溢れてしまうような幸福よりも、自分で探して見つけ拾い上げた細やかな幸せに敏感でいたい。

幸せではないと感じるときも不幸かと聞かれたら頷けない。不幸という状態にあるほど、自分はまだ最低な状態ではないのかもしれない、そんな風に思えるようになったりもする。


望むばかりではなく、今私にあるものは何か、それを見失わずに生きていたい。

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