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超常現象と出会うために ~信じる気持ちと自己否定編~



序章 ~以前の記事のおさらい~


以前の記事で、超常現象と出会うために必要なことについて書きましたが、おさらいすると以下のような内容でした。

「この目で見るまでは信じない」という姿勢は、実に厚かましい態度だ。なぜなら、超常現象は科学の枠を超えた領域に存在するため、体験者自身が無意識に潜む情報を受け取るためのアンテナを張る必要があるからだ。そのため、このアンテナの基盤となる「意識の働き」について洞察を深めることが不可欠となる。また、超常現象は「信じる気持ち(自己暗示)」によって引き寄せられやすく、疑ってかかる姿勢はその発現とすこぶる相性が悪いと考えられる。そのことからも、「信じる気持ち」を持つことが、未知の現象を体験するための重要な鍵となる。

↓以下が該当の記事です。


この論旨に対する基本的な考えは変わっていませんが、「もっと分かりやすく説明してほしい」という声もありました(筆者調べ)。私自身も、思っていることを今以上に分かりやすく、正確に言語化するのが目標です。

そこで今回は、この論旨をベースとしつつ、その中でも最も重要で本質的なテーマである「信じる気持ちの大切さ」に改めて焦点を当てることで、全体の解像度をさらに高めていければと思います。


その記事の中で、疑ってかかる姿勢は超常現象の発現とすこぶる相性が悪い点に加えて、「信じる気持ち」は「自己暗示」を伴う性質のもので、それは日常の中でごく自然に行われているという話をしました。

今回は、その「信じる気持ち」の妨げになっているものについての話がメインとなります。


信じる気持ちの最大の敵は「自己否定の感情」


私たちは日々、大小問わず不思議なことに頻繁に出会っています。
にもかかわらず、多くの場合、「気のせいだろう」「そんなことあるはずがない」などと理由をつけてスルーしてしまうことも多いです。元々、超常現象にどちらかというと懐疑的だった自分もそうでした。

一方で、無意識では、なんとなく「不思議だな」と感じたり、「いつもと違うな」と違和感を感じたりしています。
こうした微妙な感覚を、自分にとって「意味のあるもの」と認識すること自体が意外と難しいのですが、この感覚こそが、超常現象が発現する兆しであることが多いのです。

この、なんとなく感じている自分の感覚をありのままに受け止めることが大事なのですが、それを妨げる要因の一つとして「自己否定の感情」があると考えます。

なので、まずは「信じる気持ち」の最大の敵である「自己否定の感情」について知ることをスタートラインとして設定したいと思います。


自己否定の感情はあらゆる不幸の原因


「自己否定の感情」は、「信じる気持ち」の形成を妨げるだけでなく、生きる上でさまざまなストレスや不安の元になると考えます。

超常現象を見過ごしてしまうだけなら、日常生活に大きな支障はないかもしれません。しかし、それより問題なのは、自己否定の感情はそのまま他者の否定へとつながってしまうことです。

本質的な問題として、自分を信じられなければ、他人を信じることもできなくなります。
例えば、自分が嘘をついていたら、他人も嘘つきに見えてくるなんてことはよくあることです。
自分が嘘をつくことで、「人は嘘をつくものだ」という原則が自ずと自分の中に形成されてしまうので、当然と言えば当然の帰結です。

自分も他人も嘘つきに見えてくると、何をしていても不信感しか湧かなくなり、自分自身の成長の機会を失うだけでなく、さまざまな精神的ストレスや不安の原因にもなります。

個人的な見解ですが、今の日本で起こっているさまざまな不幸な出来事の背景には、この自己否定の問題があると考えています。


矛盾した状態が自己否定の感情を生む


ではなぜ「自己否定の感情」は生まれるのか。

これは、育った環境や過去の失敗などからも形成されるものである上に、人それぞれの性質が影響している場合もあるので、一概に原因を特定するのは難しい問題だと思います。

また、根本的な解決のためには、慎重に個々人の傷と向き合い、ケアが必要な場合も多いと思います。

ただ、日常においてその否定的な感情にブーストをかけているのは、普段の心構えだったりするのも事実です。

日常の中の、ある「矛盾した状態」が自己否定につながると私は考えます。


それは、この世界が、ミラーボールのように多面的であり、一つの視点では全体を把握しきれないにもかかわらず、特定の視点に偏ってしまうことで生まれる矛盾が生み出す状態です。

オカルトで言えば、科学や合理主義に基づいた人が、科学では説明できない現象を目の当たりにしたとき、「科学および合理的思考によって全て説明できるはずだ」と無理に思い込もうとしますが、実際には不可能なので、この二つの現実の間で引き裂かれるような状態となります。
つまり、現実は多元的にもかかわらず、一元的な結果を求めてしまうことで矛盾が生まれるのです。

このような矛盾を孕んだ状態が、やがては自己否定の感情を生み出し、苦しみの原因になると考えます。


自己否定の正体は、傷ついた自分自身


ではなぜこの矛盾が自己否定の感情を生み出し、苦しみの原因となるのか。

それは、本来の自分の感情に背くことが、自分自身を否定することになるからです。

どんな人でも、自分の内側に本来の自分が眠っていると私は考えます。それは、自分の価値基準の基盤となるもの(先ほどの例で言えば、科学や合理主義に則した信念体系)がデータベースとしての自分へインストールされる前の、知識を必要としない自然な状態の自分です。

こう言うと、いかにも怪しい自己啓発か宗教みがありますが、まあシンプルに、買ったばかりのPCみたいなものだと思っていただければOKです。

そこに、さまざまな経験によって、価値基準の基盤となるデータが少しずつ刻まれていって今の自分が形成されているわけです。

そうなる前の、まっさらな状態の自分は、潜伏しているとはいえ、常に何かを欲しています。この本来の自分の欲望に背く行動を取れば取るほど、自分自身を傷つけることになるのです。

自分は本当は何をしたいのか、冷静に見つめられているときは問題ないのですが、社会的な要請や、人間関係における建前を優先したりすることで、だんだんと本来の自分の声が聴き取りにくくなってしまうと、こうした事態を招きやすくなります。

このように、自分が本来あるべき姿から遠ざかった言動を繰り返すことで、次第に自分自身に不信感を抱くようになり、「受け入れがたい自分」が誕生します。つまりこれが自己否定の正体です。

この自己否定の感情に支配された状態は、さまざまな苦しみを引き起こす原因となります。


自己否定からの脱却 ~矛盾に満ちた状態を楽しむ~


では、こうした自己否定からの脱却を考えるときに思い出していただきたいのは、先にも触れた通り、複雑な現実を一元的で偏った視点で捉えてしまうことが、これらの不幸の出発点になっている点です。

なので、まずは俯瞰で物事を見る姿勢が重要となるのですが、これが意外と難しいことだと感じます。
なぜなら、対象がどんなものであれ、正体が分からないものを分からないまま受け入れるということは、大きな不安やストレスの元となるからです。


なので、多くの人は正体の分からない現象に対し、ありったけの知識を総動員して(それが時には事実に反するとしても)、自分が理解できる物語(ストーリー)に仕立てあげることで、納得しようとします。
例えば、「幽霊なんて幻覚・幻聴ですべて説明がつく」と思い込むことで、納得して安心しようとします。

しかし残念ながら、現実はそんなに簡単に一つの形に収まるものではありません。現実は一枚岩ではないのです。

なので、まずは、現実は複雑であり真実は一つではないということを知る、そう思う癖をつけることが重要です。


例えば、この世界には喜びがあれば悲しみがあります。正義があれば悪が、光があれば陰があるというように、必ず特定の概念には、それに相反する概念が存在します。
こうした基本構造を「二元論」と言ったりします。

例えば、以下の図のように、この世界をあえて二元論(AとB)で捉えて説明するならば、そのAとBの間には、実際には目に見えない広大なスペースがあり、「A1、A2、A3…」と無数の考え方が存在するというふうにも言い換えられます。




そして、「現実は複雑であり真実は一つではない」と考えられる癖がついてきたら、次は、この矛盾に満ちた状態を楽しめるかどうかが、その後の大きな分岐点になると考えます。

私に言わせれば、せっかく正体が分からないものに出会えたのに、知ってる知識だけで無理やり分かったことにして済ませようなんて、こんなもったいないことはないです。

意味が分からないものに出会ったときほど、その分からなさをじっくりと味わい尽くすことが重要なのです。

そして、結果的に、それが自己否定の状態から抜け出すための重要な鍵にもなります。


余談ですが、こうした「矛盾や対立を統合し、より高度な段階に昇華する」考え方のことを「アウフヘーベン(止揚)」と言ったりします。※ドイツの哲学者であるヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念です。


面白がるコツは理論と実践のバランス


では、どうしたら面白がれるかですが、なかなか言葉で説明するのが難しく、この章を何度も書こうとしては書き直してを繰り返していました。

ただ一つ、言えるとすれば、理論と実践をバランスよく行うことが重要だということです。


自分などはまだまだですが、超常現象を真に面白がれる人というのは、往々にして知識量が半端ないと感じます。どんな分野でも、やはり「学び」は基本だと思います。

例えば、自分が一つの部屋だとします。
「学び(知識)」は窓を増やしてくれます。
窓が一つしかなければ、入ってくる情報も少なく、視野も自ずと狭まります。

窓が一つしかない部屋


偶然、その窓から入ってきた情報が否定的なものであった場合、次に新たな情報が入ってくるまで、否定的な感情を抱えたまま悶々と過ごすことになります。しかし、この窓が多ければ多いほど、さまざまな視点の情報が入ってきます。そして、次第に「現実は複雑であり、真実は一つではない」ということを実感できるようになります。

たくさんの窓から色とりどりの声を聴いているうちに、一点に固着していた思考は身軽さを取り戻します。そして、少しずつ自由な思考ができるようになり、目の前のものをさまざまな角度から味わえるようになります。

窓がたくさんある部屋




ここまでで説明した「学び」とは、”理論と実践”の理論の部分です。
理論を伸ばしたら、今度はその分実践を伸ばす必要があります。

自分という部屋は、自分の思考という柱で支えられて建っています。
何を柱にするかは人それぞれですが、一本の柱だけではすぐに傾いてしまいます。常に柱は二本以上で支え合う関係なのです。

”理論と実践”のどちらが欠けても、部屋は傾いてしまう


理論の柱を立てたら、反対側には実践の柱を立てる必要があります。

例えば、音楽理論を熟知しているだけでは、すぐにプロのようにギターが弾けるわけではありません。理論に伴ったテクニックが必要です。

オカルトで言えば、人間の脳波やエネルギーに関する仮説を立てたとしたら、オーラ視などを行い、人や物のエネルギーを感じ取る訓練を経て、初めて仮説が裏付けられます。


なので、まずは知識の窓を増やして論理的な思考を身につけた上で、実践により身体的な感覚を身につけることが重要だと考えます。
この相反する二つの要素を常にバランスよく両立した状態を保つことが重要です。

この均衡した状態を保つことで、さまざまな不幸の出発点だった「二元的な視点のどちらか一方に偏ってしまうこと」からも自由になり、眠っている本来の自分が感じていることを、ありのままに信じられるようになる準備が整うのだと考えます。


終章

一応、ここまでで、超常現象を引き寄せる際に重要な「信じる気持ち」を妨げるものは「自己否定の感情」であることと、そこから脱却する方法について、自分が分かっている範囲で書いてみました。ちょっと難しいテーマでしたので、正直まだ書き足りなさもありますが。。

また機会があれば、他のテーマについても掘り下げてみたいと思います。



ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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