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手軽になって失ったもの
パソコンでnoteの文章を読んでいてハッとした。
久しぶりに、じっくり文章を読んでいる気がする
普段、他のクリエイターさんの文章を読む時はスマホを使うことがほとんどだから気づかなかったけれど、最近自分の中で「読む」がただの消費活動になっていた。
何となくさっと読んで、読んだ気になって、気に入ればスキをつける。
その一連の作業、消費活動を、親指だけで惰性で行っていく。
元々それがしたくて文章を読んでいるわけではないのに。
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様々なモノ・コトが手軽になった。
食事もエンターテイメントもデバイスも、何でも。
何だか最近は、生活の中でする行為の一つひとつを純粋に楽しめていない気がする。
場所や時間に囚われない食事、インプットとしてのコンテンツ消費。
それらの奥に、効率化や自己成長といったものが見え隠れしている気がして、行為そのものやその瞬間を噛み締められていない。
それ自体決して悪いことではないけれど、違和感を覚える。
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今あるもので十分幸せ
目の前の幸せを噛み締める
これらの感覚が理解できなかった。いや、いまだに理解できていない。
無いものは欲しくなるし、今よりも未来に幸せを見てしまう。
未来から今を振り返れば、今この瞬間はかなり幸せな方なのかもしれない。
今が「幸せの絶頂」との可能性さえあるわけで。
「自分って今幸せなんだよな」と思うことはできても、何だか実感が湧かない。
「幸せ」は概念であり感覚だから、空腹や満腹ほどの実感は無いだろうし、感じようと思って感じられるものではなさそうだ。
そう考えると、日々の行為の一つひとつを噛み締めること、これも噛み締めようとするのではなく、簡単な言葉で言えば、一つひとつを純粋になぞっていくことが、「幸せ」という感覚に繋がっていくような気がする。
効率性や最短距離、そのようなものが是とされる中で、手軽さを捨てたり消費を純粋に楽しむというのは、時代に取り残されることを意味するかもしれない。
けれど、そんな時代だからこそ、「本当にこれで良いんだろうか」なんて一切考えられないくらい生活の一つひとつを純粋に営むことができれば、僕らは自分を取り戻し、「幸せ」を実感できるのかもしれない。
そんな幸せを実感できている状態で、自分が何を思い、何を文章にするのか、それを見るまではしぶとく生きていこうと思う。
▼本当にこれで良いのか?と疑問だらけのTwitter
@yohacu_ogata
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