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自分で、自分にレッテルを貼ること

「普通の社会人が〜」とか「しがないサラリーマンが〜」とか、自らをそう表現している人は少なくないけれど、そんなこと言わなくて良いのに、とたまに思ったりする。もちろん、自分自身に対しても。

言葉の使い方は生き方そのもので、どんな言葉を使うかで、自分自身がどんな人間になれるか、決定されていくような気がする。

「自分はすごい人だ」と言えばすごい人になれる、そんな単純な話ではなく、自分自身が貼り付けたレッテルに多少なりとも見合おうとする心理が働く、という話。

おそらく、「理想」を表現したレッテルよりも、自分自身の現状を表現したレッテルの方が、その心理は働きやすい気がする。

例えば、自分自身に「ダメ人間」というレッテルを貼ると、何かうまくいかなった時に「まぁ、私はダメ人間だから」と、言い訳として使えてしまう。

だからといって、「自分はすごい人間だ」とか、「自分はやればできるんだ」とか、そういうレッテルを貼りまくろう、という話ではない。

人間と言葉の主従関係は、実はぼくらが想像している逆で、やっぱり、ぼくらは日頃使う言葉に少なからず左右される生き物だから、自分の使う言葉はもっとこだわって良いんじゃないか、と。

そんなことを考えているからか、自己分析や自分について知ることに対して、最近少し躊躇いの気持ちがある。

「自分は〇〇な人間だ」と自覚すること、つまり、自分自身にレッテルを貼ることが自分の可能性を狭めたり、余白を埋めることになってしまうのではないか、と。

表裏一体。

「そういえば、自分は文章を書くのそんな嫌いじゃないな?」

そう思えたから、文章を書こうと思えているわけだし、いまだにこうして継続できている。だから、自分にレッテルを貼ることは、悪いことだけではない。


途中散らかしてしまったけれど、言いたいことは「普段、自分が使う言葉にこだわりたい」ということ。

テレパシーでのやり取りが可能になる未来でない限りは、しばらく人間は言葉を使い続けるだろう。喋るにしても、書くにしても。

これまでの自分を構成しているのは言葉だし、これからの自分を構成するのもきっと言葉だ。

やっぱり、言葉の使い方は生き方そのものかもしれない。

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おがたのよはく
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