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「一晩中 絶望と戦った」と尾崎豊は歌っていた。私は一体何を歌うのか?

「尾崎豊よりも生きてしまったなぁ、ブルース・リーよりも年上になってしまったのかよ…」

昨夜、眠れずに、Wikipediaを転々と見続けていた。
そこで、短命だった有名人の亡くなった年を調べていたら、すでに尾崎豊よりもブルース・リーよりも生きてしまっている。

坂本竜馬よりも、アレキサンダー大王よりも、イエス・キリストも私は生きてしまっている。

短命でありながらも多くの作品や偉業をこの世に残した偉人達ばかりである。

私はどうだろう。一体何を残したか。何も、ないのである。悲しいことに、何もないのである。

ああ、自分はこの年まで何もなく、ただ生きてしまったのか。そう思うと、悲しいと思うのやら、悔しいと思うのやら、自分の無能さを噛みしめるばかりである。

時代がいけなかったのか、それとも育った環境がいけなかったのか、それとも努力がたらなかったのか。私にはわからない。人生は全て、サイコロの目を振るようなものなのだから。結果として、今こうしてただの精神疾患野郎がいることだけは事実だ。悲しいことだが、受け入れなければならない。

こういう話をしてみると、必ず出てくるのが逆に「晩年成功した偉人」の話になる。間違いなく出てくるのは、カーネルサンダース。彼がケンタッキーフライドチキンを創業したのは65歳だと言う。あと、伊能忠敬。彼は50歳で勉強を始め、56歳で日本地図を作ることになった。晩年の偉人の話に必ず出てくる偉人ツートップ。

しかし、彼ら2人しか晩年成功した偉人は出てこない。
つまり、ほとんどの人が晩年は成功出来ないのである。昔の純粋な頃だったら「よし!俺も頑張る!」となるのだが、そうもいかないのはまさに歳をとったからか。

もう34歳。旬はとっくに過ぎてしまった。
スキルもなければ、双極性障害にもなった。
こんな状態で、私はこれからスタートを切らなければならない。
尾崎が「一晩中 絶望と戦った」と唄ったのは「太陽の破片」という歌だ。僕も、同じように、毎晩絶望と戦っている。尾崎が孤独と戦った歌を聞き、私もこの孤独と戦えるような気がしている。それが、どんなに遅いスタートだったとしても。

上記したサイコロの話をして、思い出したことがある。
カエサルが軍を率いて、イタリアのルビコン川を渡ろうとした時に言った、有名な一言。

「賽は投げられた」


これは「運命に向かってことは進み始めたので、もはや引き返すことはできない、行くしかないのだ」という意味。

私の人生も、賽はもう投げられてしまったのだ。
後戻りはできない。


最後まで読んで頂きありがとうございます。
貴方様に幸せが訪れますように。

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