知っておくべき古典。萩尾望都のSF、竹宮恵子のSF
今回は、サブカルの「古典」について少し書きたいと思う。
そのての古典の作者といえば、まず普通に考えれば手塚治虫、及びその直系というべき「トキワ荘」メンバーが挙げられる。
だけど、もうひとつ忘れちゃいけないものがある。
それが「大泉サロン」というやつで、この存在は女子ならよく知ってるだろうが、意外と男子は知らないものである。
早い話が、これは少女漫画版「トキワ荘」さ。
そこの主要メンバーが、萩尾望都と竹宮恵子。
萩尾望都(1949年生まれ)
<代表作>
「ポーの一族」「トーマの心臓」「11人いる!」「半神」etc
<賞歴>
アングレーム国際漫画祭特別栄誉賞、日本漫画家協会賞文部科学大臣賞、
手塚治虫文化賞、星雲賞(3回受賞)、日本SF大賞etc
竹宮恵子(1950年生まれ)
<代表作>
「風と木の詩」「地球へ・・・」「ファラオの墓」「イズァローン伝説」etc
<賞歴>
日本漫画家協会賞文部科学大臣賞、星雲賞、紫綬褒章,、小学館漫画賞etc
この御二人の名前は、さすがに男子でも知ってるだろう。
大御所中の大御所である。
この御二人は同学年ということもあって、ライバルであり、親友でもあったようなんだが、ある時期から何らかの事情で絶交したといわれている。
それこそ紫式部と清少納言みたいなもんで、才能ある者同士の関係は意外と複雑なものになりがちである。
で、この御二人の作家性には
「SF」と「BL」
という共通した2軸があり、特に昨今のBL人気は、そのルーツをたどれば必ずこの両先生に行き着くんだよね。
腐女子界の創造主といっていいだろう。
・・いやね、私サブカルに関しては雑食な方だけど、ことBLに関してだけは生理的に無理なんで、ごめんなさい。
いや、決してBLそのものを否定する気はなくて、単に嗜好の問題。
ただそれゆえ、萩尾作品にしても竹宮作品にしても、その作家性の一番肝心な領域には踏み込めてないわけだし、そういう意味では私は永遠に少女漫画童貞だろう。
・・いや、もうそれでいいです。
ただし、それでも童貞は童貞なりに、やはり少女漫画の古典を楽しみたいと思っているわけで、そこで目をつけるべきはもうひとつの方の軸、「SF」なんだ。
さて、今回は私のような童貞気質の人の為、2つの古典とされるSFアニメをご紹介してみたい。
萩尾先生で1作品、竹宮先生で1作品。
じゃ、まずは萩尾先生の方から。
映画「11人いる!」(1986年)
いや、これはさすがに名作中の名作ゆえ、むしろ見てない人の方が少ないだろう。
未見の方は、YouTubeに無料動画がアップされてるので、是非一度ご覧ください。
多分だけど、萩尾先生のアニメ化作品ってこれだけなんじゃないかな?
つまり、稀少な一本である。
近年では、本作をオマージュした「彼方のアストラ」がヒットしたよね。
もちろん「彼方のアストラ」を面白いと思った人は、「11人いる!」の方も押さえておかないとおかしい。
それは「ガンダムSEED」を見てガンダムファンになった人が、富野由悠季版「ガンダム」は見たことない、というほどにおかしいことである。
・・そういや、宮藤官九郎もこういうドラマ↑↑で萩尾望都オマージュをしてたっけ。
で、この作品において一番人気キャラというのが、多分「フロル」なんですよ。
上の画でいうと、赤い服着たオンナノコっぽい子ね。
でも、この子はオンナノコじゃないし、かといってオトコノコでもない。
「まだ性別が決まってない」という、そういう種族なんだ。
なんか、そういうジェンダーの曖昧さが、いかにも萩尾先生っぽい。
確か、京アニの「氷菓」でマヤカが学園祭のコスプレの際、フロルの衣裳を着てたんだよね。
さすがマヤカは漫研だけのことはあり、シブく萩尾作品で攻めてきたわけさ。
このコスプレ、オンナノコはすぐにピンとくるけど、オトコは「?」となるものでしょ。
フロル?何それ?ってね。
こういうこともあるし、やはりオトコも少女漫画の最低限の古典は押さえておくべきだと思うぞ。
で、これのストーリーを軽く説明すると、
「10人のはずの受験者が、なぜか11人いる。
この中にひとり、ニセモノが混じっている」
というミステリーで、こういう設定、どっかで見たことあるわ、という人は多いだろう。
実際、このてのやつは「六花の勇者」含めて色々あると思うし、でもそれらは大体が「11人いる!」のオマージュである。
じゃ、やはり元ネタは知っとくことに越したことはない。
ニセモノは誰なのか、そして、その目的は一体何なのか?
そこが最大のキモだと思わせといて、実はそうじゃなく、その件よりもっと大きいストーリーが潜んでるという、このへんの展開、やっぱ萩尾先生って物語の作り方が異様なほど巧いわ~。
聞けば、めっちゃ漫画オタクの竹宮先生に対し、どっちかというと萩尾先生は非漫画ジャンル(海外の文学や映画等)が作家性の核になってるとやら?
じゃ、次は竹宮先生の方の作品を見てみよう。
映画版「地球へ・・・」(1980年)
TVアニメ版「地球へ・・・」(2007年)
この名作、2バージョンあるんだよね。
一般的に、映画版<<TVアニメ版とされている。
いや、この物語は歳月でいうと30年以上にも及ぶ大河ドラマであり、それを僅か110分という映画の尺でおさめるにはもともと無理があったのよ。
よって、映画の描写はかなり省略されてるし、改変もされてるし、その意味でいうとTVアニメ版(全24話)を優先で見た方がいいのは間違いない。
ただ私としては、TV版を見た後、敢えて映画も見ておいた方がいいのでは?と思ってたりするわけよ。
なんかね、映画版は映画版で独特の味があるから。
特にこの映画は伝説のアニメーター・金田伊功ががっつりと携わっており、特に終盤の大爆発/大崩壊の作画、アニメファンなら一見の価値があると思うんだわ。
でもまぁ、基本はTVアニメ版の方で話を進めていこう。
この作品のストーリーは
<人工知能グランドマザーに完全制御された管理社会下の人類>と<人類の進化系として覚醒した超能力種族ミュウ>の対決を描いたものである。
これも既視感ある設定やわ~、と思うかい?
というか、こっちの方が元ネタですよ。
原作は1977年だから。
ただ竹宮先生は石ノ森章太郎先生の大ファンだったらしく、ルーツのルーツまでたどれば、多分そっちの方になるんだけど。
しかし、葛藤や苦悩など、人間描写の緻密さにおいては「地球へ・・・」の方が石ノ森作品より遥かに上である。
というか、そのへんがあまりにも緻密すぎて、オトコノコ的には「いやいやもうイイです」という気分になるかもしれない。
で、私がこの作品で特に秀逸だと思ったのが、「グランドマザー」と称する巨大人工知能、人類統轄機構である。
この作品、スペースオペラと思いきや、どっちかっつーとサイバーパンクだよね。
このAIの管理の下、人間は人工授精によって生まれ、血縁のない養父母によって養育され、14歳で「成人検査」をクリアした者のみがオトナになるという徹底した管理システムなんだ(クリアしない者は処分)。
「成人検査」では、それまでの記憶を消去されるという狂気のディストピアである。
こういう徹底管理の意味するところは、いわば人類の「去勢」。
なぜそういう処置が必要かといえば、かつて人類が自由に生きた結果、地球は居住不可能になるほど汚染されたという反省に立脚してるようだ。
で、現在の地球は「浄化中」。
今後、浄化の済んだ地球に住めるのはAIが許す者のみ、ということだね。
変な話だが、もはやAIは人類に貢献する為に稼働してるわけでなく、逆に人類がAIに服従することで生かしていただいてる、という社会システム。
このへんのロジックが、あまりピンとこない人も多いだろう。
ここまでしてAIが人権を制限する意味が分からん、と。
いや、多分ね、これは「人間放っとくと、どんどん地球を蝕む害悪となる」という性悪説が根底にあると思う。
むしろ規制が必要、と。
これって、この作品が発表された70年代という時代背景もあるんだ。
というのも、今でこそ見事に改善されたが、かつての60~70年代は上の図のように公害問題がマジでエゲツないことになってて、こういう時代に生まれ育った竹宮先生は「そのうち地球は居住不可能な環境になる」と感じてたと思う。
あと、先生は子供の頃リアルタイムで「キューバ危機」も経験してるわけで、「そのうち核戦争が起きる!」と考えてもいたはず。
こういうのは「世代の感覚」「世代の危機感」とでもいうのかな、竹宮先生のみならず、宮崎駿にしても富野由悠季にしても、古い世代の人たちは皆、その作家性の根幹に切実な危機感が潜んでるんだよ。
大体、女子が何でSFなんかを描くのかって、そりゃ手塚先生や石ノ森先生の影響もあっただろうが、その一方で「このままだと、なんかヤバいわよ」というメッセージを発信するには、SFこそが最も有効な表現方法だったと思う。
きっと、萩尾先生もまたそうだったはず。
逆に、今の女性漫画家はあまりSFを描かなくなったよね?
これは今の時代がそれなりに平穏だし、誰も人類存続の危機とか特に感じてないからだと思う。
そのせいか、萩尾&竹宮両先生から現代に受け継がれたものは、主にBLの方の軸ばかりになってしまった気が・・(笑)。
でも、マジでこの「地球へ・・・」のディストピア設定とか、めっちゃ後世に影響与えてると思うんだよね。
だから、今見ても全く古さを感じさせないし、特に最後の最後に明かされるグランドマザーの狂行の真相とか、実に見事なものさ。
もし未見の方がいらしたら、是非ともご覧いただきたい。