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不在の存在

幼稚園児の時から感じていたこと

幼稚園児の時

幼稚園児だった私は、友達が家に遊びに来た後、ポケモンのフィギュアを片付けている時、突然強烈な悲しみを感じた。
さっきまでここで楽しく遊んでいたのに、嘘だったかのように静かという現実を受け入れるのが難しく、小さな心が締め付けられた。
この感情は言葉にすることができないけれど、確かに存在していた。

祖父の死

その感情を再び強く感じたのは、祖父が亡くなった時だった。
祖父母の家のリビングで、初めて目の前にした死体は、ドライアイスで冷やされた冷たい肉の塊だった。
前日に病床で温かかったその手が、まるで冷凍食品のように冷たく硬くなっていた。
数日後、再び祖母の家を訪れた時、リビングにはもう祖父の姿はなかった。
確かに"そこ"で祖父と遊んだ記憶も、変わり果てた祖父が横たわっていた記憶もあるのに、嘘のように空っぽになっている空間を見て、幼い頃に感じたあの胸の締め付けを思い出した。
あの時も、名前のつけられない感情が胸に広がっていた。
そしてその感情に、"不在の存在"という名前を与えた。

大人になっても続く感覚

大人になり、一人暮らしを始め、時折友人を家に招くことがある。友人が帰った後、そこに残るのはポケモンのフィギュアではなく、缶チューハイの空き缶やコンビニの弁当、お菓子の袋などだ。
あの頃と変わらず、部屋には静寂と"不在"が漂っている。
その場を共有していた人々が突然いなくなった後に感じるこの"不在の存在"。
それは、幼稚園児の時に友達が帰った後に感じた感情と同じで、時が経っても決して消えることのない感覚だ。

不在の存在に対する不安

この不安が特に強くなるのは、次にその人と会えるかどうかが不確実な場合だ。
実家に住んでいた頃、家族の食器を洗っていても"不在"を感じることはなかった。
しかし、一人暮らしを始めてから久々に実家に帰った時、一人でふと食器を洗っていると、"不在の存在"が胸に押し寄せる。
次に家族と会えるかどうかが不確かだからだろう。また、家族の年齢とともに、不幸が起こる可能性が高まるという現実も、その感覚を一層強めるのだ。

男女の関係ではより明確に

ワンナイトをした後、使い終わったコンドームを見つめると、その相手の"不在"が一層強く感じられる。
2度と会うことのない関係性が、その不在をより大きく感じさせ、もうここにはいないという現実が重くのしかかる。
それもまた、"不在の存在"の一つの形だ。

結論

"不在の存在"は、生きていく中で避けては通れない概念だと思う。
次に会うかどうかが不確かであればこそ、その一瞬一瞬の価値が際立ち、余計に日常の中の出会いや別れを大切にしようと感じるのだ。
日々の出会いを大切にしたい。

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