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雨降る森の美術館
箱根のポーラ美術館。友達の大切かもしれない場所だったので、行く前から親しみを感じていた(すごく遠回しだけど、インスタに載っていた、の意です)。大雨が降って電車が停電で止まっていたので、バスを乗り継いで行った。箱根は初めてだったのであんなに山が深いとは知らなかった。うねうねと山道を走るバスの車窓から、雨に濡れて色を増した森の緑が流れて見えた。
美術館に到着すると、山の勾配を利用して建てられているのか、入口を抜けるとエスカレーターが階下に伸び、さらに地下まで展示室が広がっていた。年間を通して、様々な企画展をやっているようだった。そしてもちろん、常設展。
たった一度だけ、美術館という環境自体が絵の額縁のようだと感じたことがある。ロンドンにある国立美術館だ。世界中の人をどしりと出迎える石造りの建物。鈍く飴色に光る額、きらびやかな壁、天井。人がたくさんいるところ特有の、地が鳴るようにどよっとした雰囲気。国名を冠さず、The National Galleryと名乗ることを許された ただひとつの美術館。すべてが作品を作品たらしめるのだと思った。
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思えば常設展をろくに見たことがなかったかもしれない。たまに行くとしたら企画展で、薄暗いく広い空間で多くの人の間を縫って見られる絵にしか出会ったことがなかった。常設展示室に入ると、明るい部屋の中で当たり前のように作品はそこにあった。
ルノワール、モネ、ピカソなどによる作品たち。企画展に駆り出されるような作品が、山の中で守られて、他の絵と肩を並べてのびのび休暇をくつろいでいるようだった。彼らの日常を垣間見るような。やあ、ようこそ、と、迎え入れられる気分だった。美術館が一つの大きな額縁なら、山の上の森の中で、雨降る日の深く濃い緑の空気に濡らされて、それはとても透明でやわらかかった。
以来、人をつかまえては好きな美術館を尋ねている。そこで差し出される名前に、その自然に紡がれるさまにどきりとしたくて。川村記念美術館、横須賀美術館、そして多くの人が良いというのは、青森県立美術館。
書けないときも、書くことばかり考えている。
なんで書きたいんだろう書くことばかり考えているんだろう何者でもないのに、と迷ったとき、江國香織さんのエッセイが側にいた。ああわたしも、こんな表現ができたら、と思うようなうつくしい表現。特別なことが起こるわけでなくても、一瞬のことをあんなにあざやかに永遠のように書く力があったら。そんな力と生きられたら。
誰に求められるでもなく、自分がやりたいようにして自分で勝手にさみしくなっているのだけれど、こうやって文章を書くのは25歳が終わる頃までにしようかと考えている。こうして内面にいつまでも意識が向きすぎるのは、自分にとってリスキーだし、もうそれほど若くないと思うからだ。
それまでに特別な力を持てるかといえば難しいかもしれないけれど、わたしが続けていることがあるとすれば、潔く正しい意味で、真実、一人でいること。その間、理想的に生きることをずっと考えていること。
わたしが言いたいのは考え続けているのは、多分こういうことだと思う。
自分が何かを大切に思うのと同じように、人は他の何かを大切に思っている。その対象に共感できないとしても。好きなもの、信じるもの、見えるものもそう。信じられないことに、みんなバラバラのものを好きで、信じていて、見ている。そういう世界がまだすこしこわくて、どうにか折り合いをつけるために書いている。自分が自分を苦しめなくてすむように、このままいて良いのだと想像する力のために。そうやって書いたものが、だれかに読まれて、共感してもらったり尊重してもらったりすると、ああこれでも良いのだと思える。
書かないことで幸せな人は、書かないでいたほうが幸せだと思う。でも書くことで幸せになるなら、それはその人にとってもっと大いなる幸せだと思う。