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「#未来のためにできること」に応募してみました⑧とりあえず中締め①。

すでにお気付きの人もいるかもしれませんが、このシリーズでは「身近なSDGsエッセー」なる与えられた課題と自分の従来に関心の接点を探るべく、ある種のランダムフォレストを仕掛けてみました。

ランダムフォレストは、多数の決定木を使って予測を行うアンサンブル学習アルゴリズムです。主に分類や回帰問題で用いられ、過学習を抑え、精度を向上させる特徴があります。

アルゴリズムの仕組み

1. データのランダムサンプリング: 元のデータセットからブートストラップ法(復元抽出)によって、ランダムに複数のサブセットを作成します。
2. 決定木の構築: 各サブセットに対して、異なる決定木を作ります。この際、各分岐でランダムに選ばれた特徴量の中から最適なものを選びます(これが決定木との違いです)。
3. 予測の集約: 多数の決定木の予測結果を集約して最終的な予測を行います。分類の場合は「多数決」で、回帰の場合は「平均値」を取ります。

特徴

• 高い精度:多くの決定木を組み合わせるため、個々の木の弱点が補われ、精度が向上します。
• 過学習に強い:多数の木を使うことで、過学習を防ぎ、汎化性能が高くなります。
• 解釈が難しい:個々の決定木は解釈が容易ですが、ランダムフォレスト全体はブラックボックス的で解釈が難しいです。

このアルゴリズムは、機械学習の多くの場面で強力な手法として利用されています。

ChatGPTに質問「ランダムフォレストのアルゴリズムについて簡潔に説明してください」

一旦は人工知能に敗れたプロの囲碁棋士が「定石=人間的知性の人間的知性に対する過剰適応」から脱却し「青い手(最適手)も緑の手(第二候補)も打てない蕁麻疹状態(各マスの確率表示のみが可能な状態)」に追い込むAI攻略法に到達した先例に倣いたかったのです。既存文学でいうとシュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig, 1881年,1942年)の遺作「チェス奇譚(1942年)」。

特別な事情により1200種類ものチェスの公式試合を丸暗記した挑戦者がプロに挑み最初こそ勝利を飾りますが、相手は定石を暗記してるに過ぎないと看過したプロ・チェスプレイヤーは徹底的に定石外しを敢行し続け、挑戦者が高口にして投了せざるを得ない状況に追い込みます。

キングはf7にあるはずなのに…間違ったところにある。全く間違っている…あんたは間違って指したんですよ!! この盤は何もかも間違ったところにある…ポーンはg4でなくg5にあるはずなのに…これは全然、別の試合じゃないか…これは…

上掲シュテファン・ツヴァイク「チェス奇譚」

誰もコンピューターとはいかに思考するか想像だに出来なかった1940年代にしては卓越した想像力であり、実際「じんましん状態に追い込む」とは、まさにこの手口の発展形として顕現したともいえましょう。正直いって、私なりの特徴抽出はここまで上手く運びませんでした。それでもロケットによって打ち上げられた人工衛星が螺旋軌道を描きながら地球の中心からの距離を次第に大きくしていく様な「揺さぶりの等加速度運動」を達成し、新たな準安定状態(静止軌道)を示唆する役割くらいは果たせたかもしれません。

無限直線[-∞,+∞]を半径1の円弧[-π,+π]に射影するには①それぞれ[0,±∞]の区画を[0,±π]の区画に1回ずつ移す。②[0,±1]の区画を[0,±2π]の区画に無限回移す。の2通りの方法がある。

これまでの9投稿を学習データとした特徴抽出

①人工知能技術への反対の大半は、インターフェイスへの反応に過ぎない。

全体像を俯瞰すると、人類は全体としては「科学的発展やイデオロギー的進化そのもの」でなく、群盲が像を撫でる様にその「インターフェース」へ脊髄反射的に反発をぶつけてきたに過ぎない事に。その一方で人類が未来に向けて持続可能な開発目標(SDGs)を切り開いてきたのは常に韓非子「五蠹」にもある先取の姿勢「聖人不期脩古不法常可論世之事因為之備(聖人は必ずしも古えにしたがおうとはせず、一定不変の道にのっとろうとしない。当世のことを論じそれの備えをする)」だったという話になる様です。

上掲「結局、持続可能な未来の到来を妨げるのはシンギュラリティというより「人間自身による人間自身の為の人間自身の規定」による制約のせいという話。」
  • 準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系」…人工知能研究は幾度も「春(特定トレンドに依存した準安定状態の成立)」と「冬(失望によるその準安定状態の崩壊)」を繰り返しながら(ファジー技術の様に)、その一部を実用化の領域に送り込んできた。

  • 随想家の心」…そうやって未来/遠距離事象が現代/近距離事象に接近していく様子は、多くの期間一般人の認識外に置かれていた。

②人工知能技術と人類は競い合うのではなく「人機一体」の未来に到達。

人間側は一方的敗北を喫してきた訳でもありません。後にDeep Blueの勝利はむしろ人間側の「情報理論的計算ミス」の産物に過ぎなかった事が明らかとなり、チェスだけでなく将棋や囲碁でも「機械の人間への勝利」自体は達成されたもののそれは「人間だけでなく機械も一緒に考えたほうが世界観が広がる」人機一体時代の始まりとなりました。

上掲「「考える機械の登場」がもたらすのは「人類の知性の敗北」ではなく「人機一体時代の到来」という話。」

AIがどれだけ強くなっても、それだけで人間の将棋は強くならない。AIを使って「自分の頭で汗をかく」人が強くなる。

上掲「生成AIで発想をインキュベートする」
  • 準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系」…人工知能技術そのものは大量生産技術やコンピューターの発達に支えられた交通網や通信網同様「人類の敵」ではなく、新時代に準安定状態をもたらす核の一つと言える。

  • 随想家の心」…人工知能技術が、交通網や通信網の様に日常を再編成するビジョンがはっきり形をなしてきた。

③「マルサスの法則の時代」を超えて「ロジスティック方程式」の時代へ。

マルサスの法則「人口は等比級数的に増加するが,それを支える食料の生産高は等差級数的にしか増加しない」は本当に人類を混乱させました。早速「(主に貧民が)戦争や飢餓や飢餓によって適度に間引かれ続けなければ人類の文明はたちまち崩壊する」「それを防ぐ為に死亡率を引き上げる/下げさせないのは正義」と茶化したサド侯爵(Marquis de Sade,1740年~1814年)こそ残りの生涯を精神病院で全うする羽目に陥りましたが、要するにNSDAPの「最後に生き残るべきは我々アーリア人である」理念も大日本帝国の大東亜共栄圏構想もこれから派生した生存戦略。そしてそうしたパニックを鎮圧したのが「生物の数は環境収容力に向けて収束する」としたロジスティック方程式だったという次第。

上掲「「マルサスの法則」の絶望的ビジョンを覆したロジスティック方程式こそSDGs理念と人工知能概念の大源流という話。」
  • 準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系」…「国体維持に十分なだけの火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制による徴税によって賄う」主権国家間の国際協調体制樹立過程が一段落すると「戦争や疫病による定期的間引きなし人類は存続不可能なのではないか?」なる理不尽な伝統的不安は準安定性の核となる力を失った(永久にその状態が続くと信じたい)。

  • 随想家の心」…「戦争や疫病による定期的間引きなし人類は存続不可能なのではないか?」なる思い込みは不可逆的な形で棄却されたと信じたい。

④「再建は既存価値観を一旦全部手放すところから始まる」なる苦い現実。

坂口安吾「堕落論(1946年)」は「戦前の努力の方向が間違っていたのなら、戦前の我々の考え方そのものが間違っており、むしろ間違っていると切り捨ててきた有象無象の中にこそ玉石混合で正解が混じっていたのだ」と主張。これこそが本当の「再建志向」という話に落ち着きそうですね。

上掲「日本人は「再建は既存価値観を一旦全部手放すところから始まる」なる苦い現実を受け入れなければならないという話。」
  • 準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系」…坂口安吾といえば「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動こそが言葉。それだけが新たな知性と倫理を創造する」なる主張も有名。ある意味、後述する逆ベイズ推定過程そのものといってよい。

この小説(サルトルの「水いらず」)には倫理などは一句も説かれてゐない。たゞ肉体が考へ、肉体が語つてゐるのである。リュリュの肉体が不能者の肉体を変な風に愛してゐる。その肉体自体の言葉が語られてゐる。

我々の倫理の歴史は、精神が肉体に就て考へてきたのだが、肉体自体もまた考へ、語りうること、さういふ立場がなければならぬことを、人々は忘れてゐた。知らなかつた。考へてみることもなかつたのだ。

サルトルの「水いらず」が徹頭徹尾、たゞ肉体自体の思考のみを語らうとしてゐることは、一見、理知がないやうだが、実は理知以上に知的な、革命的な意味がある。

私は今までサルトルは知らなかつたが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。人間を見直すことが必要だと考へてゐた。それは僕だけではないやうだ。洋の東西を問はず、大体人間の正体といふもの、モラルといふものを肉体自体の思考から探しださねばならぬといふことが、期せずして起つたのではないかと思ふ。

織田作之助君なども、明確に思考する肉体自体といふことを狙つてゐるやうに思はれる。だから、そこにはモラルがない。一見、知性がない。モラルといふものは、この後に来なければならないのだから、それ自体にモラルがないのは当然で、背徳だの、悪徳だのといふ自意識もいらない。思考する肉体自体に、さういふものはないからだ。一見知性的でないといふことほど、この場合、知的な意味はない。知性の後のものだから。

上掲坂口安吾「肉体が思考する(1946年)」
  • 随想家の心」…事前分布の元が事後分布に含まれない様な破壊的イノベーションに際しては、むしろ「自分が正しいと信じて遂行していた事前分布の元は何処が間違っていたのか」についての徹底分析が新たな出発点となる。クレイトン・クリステンセン「イノベーションのジレンマ(The Innovator's Dilemma, 1997年)」は名著だが、皮肉にもこれに刺激されて自ら「破壊的イノベーション」を遂行するSAPやIBMの様な大企業が現れ、さらにはそのノウハウを輸出するSustainability Solution Supplier企業群を構成する展開となって「預言書」としての役割を終焉したとも。

持続的技術は既存の製品やサービスの性能を向上させる技術。例えば、車の燃費を向上させる技術など。

破壊的技術は、既存の市場に新しい価値基準をもたらす技術。例えば、電気自動車(EV)の登場は、ガソリン車が主流だった市場に新たな価値を提供。

多くの優良企業は、顧客のニーズに応え、持続的技術に投資し続けることで成功を収めてきた。しかし、破壊的技術が登場すると、これまでの成功が逆に足かせとなり、新しい技術に適応できずに市場での地位を失うことがある。

コダックは、かつて世界最大のフィルムメーカーだったが、デジタルカメラの登場により市場の変化に対応できず、破産に追い込まれた。デジタル技術が普及する中で、従来のフィルムビジネスに固執した結果、破壊的イノベーションに対応できなかった典型的な例。

2000年代初頭、日本の携帯電話メーカーはガラケー(フィーチャーフォン)の開発に注力していたが、スマートフォンの登場により市場が一変。これにより、多くの日本企業が競争力を失い、スマートフォン市場でのシェアを海外メーカーに奪われる結果となった。

上掲「【まとめ】『イノベーションのジレンマ』破壊的技術を活用して新しい市場を開拓せよ #8」

【特徴抽出】「タフでなければ生き残れない。タフなだけでは生き残る資格がない」

ここまでの投稿で、ハードボイルド文学の名言「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.)」をトートロジーっぽく言い換えた「タフでなければ生き残れない。タフなだけでは生き残る資格がない(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I was only hard, I wouldn't deserve to be alive.)」概念を「生き残る為の責務を課されるのは、常に生き延びた者だけである」ジレンマに結びつける構図が背景として浮上してきました。

  • ノーバート・ウィナー「サイバネティクス(Cybernetics,初版1948年,増補版1961年)」は「マクスウェルの魔」における準安定概念より出発し「(ホルモン連鎖などで結ばれた臓器によって構成される)個体や(フェロモン連鎖などで結ばれた個体によって構成される)群の発生と(変化しながらの)持続」を系統進化と呼んだ。ここでいう「(適切なフィードバック連鎖によって保たれる)持続」概念こそがある意味、現代社会におけるSustainability概念の大源流とも。

  • そもそも最初に古典的自由主義を提唱したコンドルセ侯爵(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年~1794年)も、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill,1806年~1873年)も数学者であり、有名な「自由論(On Liberty,1859年)」における「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならず、これを妨げる権力が正当化される場合は他人に実害を与える場合だけに限定される」なる宣言も、国家や大衆先生主義による定向進化の強要が人類の種としてのSustainabilityを損ねるのを恐れての警鐘だったとされている。

ワイブル分布を単純化した指数分布においては、寿命N年の個体のN年目の平均生存率は1/e(0.3678794…)と見積もられる。そしてこれを一期目とすると二期目や三期目の生存率は急激に低下するが、適切なフィードバック連鎖が働いている群や法人はこの壁を乗り越える。
初試行では、例えば「52枚の山札から一枚引いたカードのスートと数が全てと見積もるしかない(しかも情報量0換算で)」尤度演算がトランプ全体の確率空間をちゃんと掌握するまでの逆ベイズ推定プロセス。現在の人工知能ブームは、この様な数理の地道な積み上げによって成立した。

ここから1970年代にBCG(Boston Consulting Group)が提唱したPPM分析(Product Portfolio Management)を21世紀に当て嵌めると何がオーバーフローするかに関心がシフト。

⑤-①そもそも現実世界には時間が線形に流れる保証自体がない。

ノーバート・ウィナー「サイバネティクス(Cybernetics,第一部1948年,第二部1961年)」によれば、情報工学はまさにロンドン大空襲(the Blitz, 1940年9月7日~1941年5月10日)で飛来する爆撃機の撃墜手段として産声を上げたのです。戦間期に急速に高速化した航空機を撃墜するプロセスに人間が判断を挟む時間的余地などなく徹底的な自動化が要求されました。「メインフレームのIBM」も、SAGE(Semi-Automatic Ground Environment=半自動式防空管制組織,1950年代終盤~1980年代)の保守を通じて技術蓄積しましたが、時宜とは常に移ろうもの。1960年代から1970年代にかけて冷戦の形骸化が進んだ結果、戦国時代と打って変わり太平の世が三百年続いた江戸幕藩体制下では築城職人が墓石職人に、鉄砲鍛冶や刀鍛冶が農具鍛治に、火薬職人が花火職人に転職した様に防衛産業や国家規模プロジェクトを支えた人材が航空会社の予約システムといった大型案件を経て次第にFA(Factory Automation)やOA(Office Automation)の分野に進出したのです。どうやらこうした激流の最中にも「正しく認識して、正しく振る舞い、正しい報酬を得る」努力を続けるのが経営責任となる様なんです?

上掲「明日の事は誰にも分からない。それでも存続し続けるにはまず可能な限り正しい現状認識が必要という話。」
  • 準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系」…「戦争が生んだ産業はすべからず戦争の継続を望む」というのは素人考えで、そうした技術や産業は太平の世への適応能力も優れているものである。

  • 随想家の心」…もちろん、そうした遷移は「事前分布の元が事後分布に残らない」破壊的イノベーションとして達成される異になる。

⑤-②生き残る為の責務を課されるのは、常に生き延びた者だけである。

かつてピエール・カルダンがライセンス範囲を広げ過ぎて失敗した様に、日本の高画質液晶TV戦略が韓国企業LGのSimpleTV構想に破れた様に、ザ・ボディショップはコモデティ化競争に巻き込まれてしまったのでした。高度成長期の日本企業も松下幸之助の水道哲学を掲げて躍進を続けたものの、気づくとむしろその考え方が足枷に。それではかかる変化はどういう段階を経て訪れたのか。

上掲「「タフでなければ生き延びられない。タフなだけでは生き延びる資格がない」伝統こそがSustainability概念の核心という話」
  • 準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系」…ポルトガル船やスペイン船を襲う私掠船艦長や、新世界の奴隷制農場で荒稼ぎする砂糖王や煙草貴族の上澄みだけ剪定して受容し続けてきた国際資本主義の歴史こそが、ある意味坂口安吾流行動主義、すなわち「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動こそが言葉。それだけが新たな知性と倫理を創造する」なる考え方の実践そのものといえる。

  • 随想家の心」…だからこそGoogleの様に「邪悪になるな」をモットー(=2015年)に掲げる企業が成功したりする.。こちらは「タフでなければ生き残れない。タフなだけでは生き残る資格がない」ルールの実践。

⑤-③「ロジスティック方程式の時代」に合わせた評価基準が待望される。

現実に快進撃を続けているのは(既存理論ではいつ「負け犬(dog)」ポジションに転落してもおかしくない)「問題児(Question mark)」ポジションの企業群。最近、クラウドに莫大な使用料を払わされ続ける企業を「デジタル小作人」と揶揄する様ですが、ならば彼らこそ「デジタル地主」?

上掲「誰も新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしないもの。ならば最優先課題は「新しい革袋(評価基準)の発明」なのでは? という話。」

取材の中では、稼げる小作人であれば良いのでは?というお話があり、この中ではクラウドを使って負債がある状態から好転させた、旅館の女将が紹介されていました。

上掲「デジタル赤字5.5兆円。なんとインバウンド消費とほぼ同等。」
  • 準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系」…1970年台に考案されたPPM分析に「イノベーションのジレンマ」の突破能力がない、それどころかむしろ(21世紀における松下幸之助の水道哲学の様に)破滅に誘惑する魔境的側面が備わったのは致し方のない事である。

  • 随想家の心」…こうした激動の時代を生き延びるには、誰もが「(行動の主体として考える)運動体の心」と「(場の動きの隅々まで目を配るギャンブラーの様な)随想家の心」を備えなければならず、しかも後者の判断基準は坂口安吾式行動主義=逆ベイズ推定によって自ら獲得した内容である必然がある。

⑤-④生き残る為には、時としてパラノイア(偏執狂)が必要となる。

「新しいイノベーションを生むためには、パラノイアになるのは必要なことだ。もちろん、自分自身がパラノイアでいるのが理想だが、誰もがそうなれるわけではない。その場合は、パラノイアに任せるわけだ」。これも一応はSustainabilityの話ではあるという次第…

上掲「「パラノイア(偏執症)のみが生き残る。自分がなれないならパラノイアに任せよ」と最前線指揮官は語った、という話。」

インテルは、長年にわたって半導体メモリ事業の世界的王者として君臨していましたが、1980年代に入り日本企業が低価格で高品質なメモリを開発・製造し始めたことに加え、マイクロプロセッサの登場により、コンピューター産業が縦割り型(自社がハードからソフトの全てのバリューチェーンをカバーする)から横割り型(各社が得意なバリューチェーンに特化する)に移行したことで、戦略転換を余儀なくされました。

著者のグローブ氏は、苦渋の決断としてインテルのアイデンティティであった半導体メモリ事業からの撤退を決め、マイクロプロセッサの製造へと完全に舵を切る方針を打ち出し、その戦略に沿った組織再編を行った、というのが大まかなインテルの戦略転換物語です。

まず、「戦略転換点」とは何でしょうか。「既存の戦略的構図が通用しなくなり、新しい構図に入れ替わるポイント」と本書では説明されています。既存の戦略的構図が通用しなくなるのは、経営環境が非連続的に変化するときです。

上掲「パラノイアのみが生き残る」
  • 準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系」…「自明の場合として大企業は次第にその存続を次第に持続的イノベーションに頼る様になり発展可能性を自ら放棄する」なる「イノベーションのジレンマ」を覆したのは、むしろその危機感ゆえに決然とした意思で経営改革を遂行する「パラノイアの経営者」達だった。

  • 随想家の心」…そうした「パラノイアの経営者」達に共通するのは、同時に「(場の動きの隅々まで目を配るギャンブラーの様な)随想家の心」をそれぞれのバランス感覚において備えていたという事。

⑤-⑤「未来が視えない」なら、それを発明するしかない。

ノーバート・ウィーナー「サイバネティクス」における「準安定性をどう維持するか」問題にまで遡る話。たちまち単純な線形フィードバックの合成だけでは説明不可能と判明し、関心は個体内のホルモン連鎖や群内におけるフェロモン連鎖といった非線形フィードバックに推移しました。これが適切なKGI(重要目標達成指標)やKPI(重要達成度指標)の設定によってステークホルダー間の互酬関係を構築するアイディアの大源流。経営陣は同時にかかる内的正義認識体系の外的生存環境への整合を検証し続ける義務も負わされる様になり、それを実現する環境の需要が生じたのがいわゆる「コクピット経営」概念の出発点。

上掲「人工知能技術は、シンギュラリティなど起こさずとも「人間の人間への過剰適応」を指摘して世界そのものを刻々と変えていくという話」
  • 準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系」…カール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」によれば、ある方向に自信をもって強引にも改革を推し進めようとする進歩主義者が、同時に多方面では慎重な変化を要請する保守主義者である事に何お矛盾も存在しない。というより、だからこそそうした人物を「時宜に応じて」可能な限りバランスよく配置する事こそが「Sustainability=準安定性の維持」には不可欠で「自由論」における「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならず、これを妨げる権力が正当化される場合は他人に実害を与える場合だけに限定される」なる章句も要するにそういう話をしているといえよう。

  • 随想家の心」…こうした考え方の連鎖は最終的には「集合を実元(Real Elements)のみで構成して閉世界仮説(Closed world assumption)を成立させたい時には空集合とせざるを得ない」いわば虚元(Imaginal Element)=最外縁の補集合=いわゆる「その他」についてどう考えるかなる問題に到達するが、これもまた「随想家の心」の領域。最終的にはティモシー・リアリー博士が到達した「Turn on. Tune in. Drop out.」の境地に通じる。

【特徴抽出】「随想家の心」

こうした検討を経てPPM分析に代わる「新しい革袋」として考案したのが以下の四象限図。

「話題になった未来技術のうち、実用された範囲だけが現代技術となり、さらにパッケージ化されたりコモデティ化された範囲だけが過去技術となり、最後には誰も話題にしなくなる」

この図は21世紀のIT業界の分析に特化し過ぎていますから、さらなる汎化が必要です。そこで思い出したのが、とある教育現場の実力者の方からネット経由で受けたアドバイス。その時、私は相関係数を「円柱を斜めに切った断面の回転」で表すアニメーションを公開していたのですが「現実はまた違った形で見えるんだよね」と指摘されたのです。

  • 「カンブリア爆発期(5億4200万年前~5億3000万年前)に授かった視覚と視覚情報を処理する脊髄の末裔」を用いて考える人類の視界はむしろ「自分との相関係数が低い事象はまるで霧が掛かったかの様にぼんやりとしか映らず、相関係数が高い事象は細部までピントが合った解像度の高い映像に視える」空気遠近法の世界を生きている(これを反映させるにはさらに確率微分方程式を援用したブラック-ショールズ方程式の様な考え方が必要となる)。

  • ただし個人個人には、こうした「低解像度画像」や「高解像度画像」のそれぞれを適切に扱う限度が存在し、その失敗例の一つがいわゆる「ケーキの切れない非行少年たち」だったりする(上掲のアニメーションについて「そういう子供達にとっては、さらにケーキを回されては混乱が広がるばかりですね」と指摘された)。

この指摘を受けて評価軸を$${e^{θi}}$$から$${e^{t}}$$に開いたのが以下の図となります。

プロの文筆家や理論家の方なら頭の中で1分も経たずこれくらいの考え方に到達出来るのでしょうが、こちらは所詮一介の素人ディレッタント(好事家)に過ぎず、同じ事を成し遂げるのに過去投稿も援用しながら丸々一ヶ月以上を要してしまいました。本当にお恥ずかしい限りです。

「残念ですね」と彼(上掲のプロ・チェスプレイヤー)は鷹揚に言った。「攻撃の手筈は決して悪くなかった。ディレッタントとしては、彼の方は実際並外れた才能をお持ちですよ」

上掲シュテファン・ツヴァイク「チェス奇譚」

まぁ自分のレベルの現状認識を思い知るのに大いに役立ったとくらいはいえそうな気がします。

「随筆=隠遁者の日記ではない」という話。

こういう形で「随想者の心」問題が浮上してきた以上、とりあえず「随筆=隠遁者の日記」なる誤解くらいは解いておく必要がありそうです。真っ先に思い浮かべるべきは「箴言集(考察あるいは教訓的格言・箴言,1659年頃~1693年)」の著者ラ・ロシュフコー公爵(François VI, duc de La Rochefoucauld, 1613年~1680年)。なんとなく「宗教的にはジャンセニスムの立場に近く、フロンドの乱でジュール・マザランと対立した宗教的政治的敗残者で、以降の人生をサロンでグダを巻き続ける事に費やしたおじさん」なるイメージがありますが、Sustainabilityを「準安定状態の持続に向けてのフィードバック体系(タフでなければ生き残れない。タフなだけでは生き残る資格がない)」と「随想家の心」の交点に求める本シリーズのアプローチからすれば①ただの「過去の人物」ではなく、何より大貴族連合の最後の残滓が自滅し、絶対王政が完全勝利を手中に納めていく時代を生き延びた壮絶なサバイバーである。②それだけでなく当時最先端の社交場だったサロンに泥入りして有名論客の一人となり、当時の発言をまとめた著作が後世にも通用して隠居者の面影が片鱗もない」点こそが重要。

清少納言「枕草紙(11世紀初頭)」

平安時代の貴族というと当時最先端のファッションや調度で隙なく固めた雅たイメージがありますが、「大鏡(白河院政期頃成立)」の様な歴史資料に目を通す限り朝廷も宮廷もドロドロの党争の場であった現実が浮かび上がってくるのです。

日本における「随想家の心」はそういう状況下、ふと自分の置かれている環境の全体像を俯瞰して「興醒め」を感じたところから生じたといえましょう。これを単なる厭世とは断言できないという訳です。

枕草子第二十五段「 すさまじきもの…」における「すさまじきもの」は「興醒めなもの」と現代語訳される事が多い様です。しかしむしろラブクラフトの神経症的解釈を応用して「普段は視野外だが、意識し出すと途端に決っして目が離せなくなる様な何か」と捉えた方がしっくりくるかもしれません。当時の日本においては、朝廷中心に回る宮廷生活こそが至高ですから、その仲間入りを果たした以上、最高のノリノリ状態で毎日を過ごすのが権利であり義務。しかし、それでもなおその陶酔状態に割り込んできて水を差すのが「すさまじきもの=興醒めなもの」という理解。

上掲「「ピクチャレスク(Picturesque)」と「すさまじきもの」の間に横たわる壮絶なまでの差分について。」

鴨長明(1155年~1216年)「方丈記(1212年)」

鴨長明も神職における出世コースを外れたのを嘆いて出家するまでは後鳥羽院の朝廷で歌人として腕を鳴らした人で「新古今和歌集」に10首が入撰した時には「生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり(無名抄)」と大喜びしたりしています。肝心の「方丈記」の内容も「無常感を綴った日記」というより当時の大火事や飢饉といった災害の記録が大半で「隠居者の日記」とは程遠かったりします。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

流れる川の流れは絶え間ないが、しかし、その水はもとの水ではない。よどみの水面に浮かぶ泡は消えては生じて、そのままの姿で長くとどまっているというためしはない。世の中の人間と住まいも、これと同じなのだ。

「方丈記」冒頭

『方丈記』の筆者鴨長明(1155~1216)が生きた平安時代末期には,平安時代を通して最大級の火災といわれる二つの大火が起こりました。人々はこの火災を「太郎焼亡」(たろうしょうぼう)「次郎焼亡」(じろうしょうぼう)と呼びました。さらに数年後,辻風(つじかぜ,つむじ風)・地震・飢饉(ききん)・日照り・洪水が相ついで京都を襲い,多くの死者を出しました。特に深刻な被害をもたらしたのは,養和年間(1181~82)の飢饉です。ここに取り上げるのは,太郎焼亡・次郎焼亡・養和(ようわ)の大飢饉の三つの災害です。

平安後期は釈迦入滅後,仏教がおとろえる末法の世に入ったと信じられた時代。まさに地獄絵さながらの情景が京中で見られました。

上掲「都市史:『方丈記』にみる三つの災害」

兼好法師(1283年~1350年)「徒然草」

その生涯の大半が不明ですが、そもそも低い身分から成り上がり、一時期は和歌四天王の一人に数えられるほどまで栄達した様な人物ですから隠居者のイメージには程遠かったりします。生きた時代も鎌倉幕府が滅びて南北朝時代が展開した政治的激動期で、やはり太平の世には程遠かったのです。

つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

孤独にあるのにまかせて、一日中、心に向かい合っては消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみると、妙に妖しくおかしな気分になってくる。

上掲「徒然草の冒頭|文学の話 - 意味と解説」

松尾芭蕉(1644年~1694年)「奥の細道(1702年)」

戦の種が尽きて江戸幕藩体制が始まると参勤交代実施の為に全国の交通インフラが整備された事もあって今度は商業戦争が活発化。絹や紙や昆布といった日本国内ローカルの「世界商品」を巡って、各地大名に選抜された御用商人(元禄時代までに壊滅)や武家を支える米経済を握った畿内の豪商、全国の富農・富商の秘密ネットワークたる株仲間(非合法組織スタート)などが激しい生存競争を繰り広げたのです。

このうち「武家を支える米経済を握った畿内の豪商」に取り入って成功したのが井原西鶴(1642年~1693年)だとすれば、かかる大都市文化に対抗意識を燃やした「株仲間=全国の富農・富商の秘密ネットワーク」に「顔」として選ばれたのが松尾芭蕉(1644年~1694年)だったのです。従って「奥の細道」も単なる紀行文学でなく、松尾芭蕉をパトロネージュした当時の在地有力者(全国ネットワークで結ばれた富農や富商)の面影を現代に伝える貴重な歴史資料という側面も備えるに至ったのでした。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也

月日は永遠の旅人のようなものであり、過ぎては来る年もまた旅人のようなものである。

「古文真宝後集」巻之三「序類」に掲載された李白の漢詩「春夜宴桃李園序(春夜桃李園の園に宴するの序)」の一説「夫れ天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」を換骨奪胎したもの。

松尾芭蕉「奥の細道」序文冒頭

【特徴抽出】「曲率1、曲率半径1」の半径1の円弧と「曲率0、曲率半径∞」の無限連続直線の間の往復

(ラ・ロシュフコー公爵の例から数えて)「五分木ランダムフォレスト」の体裁が整いましたので特徴抽出といきましょう。真っ先に脳裏に閃いたのが「曲率1、曲率半径1」の半径1の円弧と「曲率0、曲率半径∞」の無限連続直線の間の往復問題。

そもそも上掲の「随想者の心」構図の導出に際しても$${e^{θi}}$$を$${e^{t}}$$に開く射影を用いてますが、ここで面白い事が起こります。「曲「曲率1、曲率半径1」の半径1の円弧上の任意の点は、自明の場合としてことごとく中心から等距離な訳ですが、この性質が「曲率0、曲率半径∞」の無限連続直線に射影しても失われないのです。どうやらこの辺りに「随筆はいつの時代に読まれても同じ様に面白くてタメになる」秘訣がありそうですね。ある意味「究極のSustainabilityの顕現」といえるかもしれません。

そんな感じで以下続報…

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