読むことで、書くことに向き合いたくなるnoteたち
書くことよりも読むことの方が多くなっても、罪悪感に苛まれなくなってきました。
昔、スポーツは「身体を動かす」ことがすべてのアクションだと思っていたけれど、徐々に「見る(観察する)」「考える」が増えてきて。
全体で見ると「スポーツをすること」には関わっていて、身体を動かすことがすべてだと思い込んでいた自分はこれでいいのか?と責める時期もありました。
けれども客観的に振り返る時間をとるからこそ、プレイする奥深さを実感できる。
それは話す/聴くもそうですし、書く/読むだって。ものづくりも熱量を持っての主観と、使い手の立場に立って客観を行き来できるからこそ、誰かのものになるように。
そうして書くことに向き合いたくなったnoteを、この場を借りてご紹介させてください。
▼ 1. 「文章は、もっともっと「個人的」でいい。」 桜小路いをりさん
先日「エッセイが読みたい」とnoteで書かせていただきましたが、この「個人的な」という視点がぴたっとはまり、代弁していただいた桜小路いをりさんにお礼を言いたくなりました。
個人的な内容、書いていこうと思います。
▼ 2.「4年続けても、わからないこと」 もつにこみさん
先ほど個人的なことを書こうという気持ちになったものの「何をどこまで書くのか?」は常に離れられないテーマですし、エッセイだからこそ脚色するよりも日常をありのままに伝える方向に行きがちです。
だからこそ、自分の身を削ってまで書くことまではどうかしないでほしいのです。
自分のnoteの最初の読者は自分。自分が苦しまない在り方で、自分が幸せになる在り方で。もつにこみさん、どうか忘れないでほしいのです。
▼ 3.「「わたし」を生き直すために、全てのメルマガを解除した」 侑子 ︴わたしの山時間とセルフラブ✎𓂃さん
何かを手放した瞬間に、何か新しいものがふっと入ってくる、そんな気がします。noteを読むことは、その分、読めなかった本が存在することで。noteに書くことは、その分、書けなかった言葉が存在することで。
であれば、自らの世界と呼べるもので時間を埋め尽くしていく。このnoteの活動こそがそうあれたらと思います。
▼ 4.「祖父の伸びしろ」つる・るるるさん
展開される世界観に惹き込まれて、あっという間に読んでしまいました。
ふと、身近にこの方がいらっしゃったとして、こんな風に私は見られるのだろうか?と胸に手を当ててみました。いや無理だなと。
観察することの大切さ、それを言葉で表現する丁寧さ。学ばせていただきました。
* おまけ
noteを書くときに気持ちとリンクする作業用BGMを選んでいます。日常から非日常にトリップするためのおまじない。
今回はこの曲です。
呪文のような言葉だからこそ、言葉の意味が繊細に耳を通って、頭の中に残ります。そんな音楽体験だっていいじゃないと。
※勝手ながら取り上げさせていただいた桜小路いをりさん、もつにこみさん、侑子 ︴わたしの山時間とセルフラブ✎𓂃さん、つる・るるるさん、どうかお許しください。