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柳澤宏美評 松永美穂『世界中の翻訳者に愛される場所』(青土社)

翻訳という仕事の永続性と広がり――「翻訳者の家」に滞在した著者の体験を綴る

柳澤宏美
書籍名・作品名:世界中の翻訳者に愛される場所
著者名・制作者名:松永美穂 
出版社名・制作者名:青土社

■著者はドイツ文学者、翻訳者であり、日本翻訳大賞の創設時から選考委員を務めるまさに翻訳人生を歩んできた人である。そんな著者がベルリンで行われた翻訳イベントで多くの人が「シュトラーレン」という単語を口にしているのに気づいた。シュトラーレンとはドイツ北西部のノルトライン=ヴェストファーレン州にある町で、そこにある「ヨーロッパ翻訳者コレギウム」という施設が話題になっていたのだ。一九七八年に開設されたこの施設は「翻訳者をリスペクトし、文化における翻訳の重要性に光を当てるために設立された」。具体的な活動には、世界各国から翻訳者が滞在できる場所を提供する「トランスレーター・イン・レジデンス」、奨学金の提供、翻訳者を目指す人のためのセミナー合宿、翻訳する本の著者を招いてのイベントなどがある。町の人々に向けた施設公開日や地元の大学生が参加するセミナーなどもあり、まさに「翻訳の重要性」を感じ、広める施設である。本書ではこの施設を「翻訳者の家」と呼び、三回滞在した著者の体験を綴る。
 トランスレーター・イン・レジデンスとはレジデンス制度のひとつだ。アーティストや作家が滞在して創作を行う「アーティスト・イン・レジデンス」や「ライター・イン・レジデンス」は日本でも知られるようになった。施設側は滞在できる場所や設備を提供し、滞在者はそこで創作を行うということが多い。場所を提供する側は文化拠点ができることで町が活性化することを期待し、滞在者はその場所の歴史や風土を知り、見聞きしたことや交流した人から刺激を受け、創作に反映することができる。実際の創作物をその場所に設置したり、演劇などの公演を行うこともある。シュトラーレンはその翻訳者版である。
 「翻訳者の家」は、当初からドイツ語だけでなく、あらゆる言語の翻訳者に開かれていた。滞在する条件は、二冊以上の翻訳があること、出版予定の本を翻訳中であることで、滞在中に翻訳していた本が出版されると「翻訳者の家」に献呈することになっている。三階建ての建物には三十のゲストルームがあり、各自部屋をあてがわれる。共用スペースにはキッチンやランドリーのほか、大きな図書館、会議室、ホールなどがある。十二万冊以上を誇る蔵書は図書館だけでなく、建物のいたるところにある。どこに何の本があるのかわかるようになっているので、個人が滞在している部屋にもある本を借りに行くことも可能だ。
 著者が初めて滞在した際、デュッセルドルフの空港からタクシーに乗って「シュトラーレンまで」と行先を言うと戸惑ったように「時間がかかるよ」と言われた通り、シュトラーレンという町は鉄道やバスでのアクセスが良い場所ではない。しかし、オランダまで三キロメートルと近いことから国境を跨いだ移動が難しくなく、教会、市の立つ広場、飲食店、学校、スーパーなどがあり、人口も増加している。
 そんな町に「年間三十カ国から六百人が訪れている」という。各国から来るのは古典文学や哲学、現代作家などさまざまなジャンルの翻訳者たちだ。キッチンで一緒になったり、週に一回の夕食会を通じて顔見知りになっていく。文化背景や生活環境が違う者同士が同じ場所に暮らすのは、思いがけないトラブルもありつつ、同じ作者の本を違う言語に訳す者と出会ったり、AI翻訳について意見を交わし合ったりするなど、翻訳という営みを共有する者ならではの交流もある。翻訳者がその国でどう扱われているのか、日本ではたくさんの訳書がある作家も別の国ではあまり翻訳されていない、など仕事に関わる話も国の違いがわかって面白い。翻訳の合間に一緒に散歩やサイクリングで小川や池、国境を超えてオランダへ行ったエピソードからは仕事から解放されて生き生きとその土地を楽しんでいる様子が伝わってくる。
 この環境は翻訳する場所として最高の環境だろう。公式ウェブサイトには、この施設は中世のスペインを手本として構想された、とあり、そしてその「翻訳者の家」を手本にヨーロッパ各地にトランスレーター・イン・レジデンスが生まれた。この歴史的な繋がりと広がりが翻訳という営みが連綿と続く作業であることを感じさせる。翻訳という作業はひとりでできる。だが、この孤独な作業を行う者同士が一緒に滞在し、交流することで、変化や学び、化学反応のようなものがあるのではないか。それは滞在者同士だけでなく、スタッフや町の人との交流も含まれるし、滞在が終わった後も続く。「翻訳者の家」は現在、二〇二八年の五十周年を迎える前に改修工事のため閉鎖している。図書館の拡張や再開したあかつきには再び翻訳文化に光を当てるだろう。
 (学芸員、書評家)

「図書新聞」No.3670・ 2025年1月11日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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