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ハイデガーやニーチェはなぜ古代ギリシャに想いを馳せるのか
ハイデガー、ニーチェ、さらにはフーコーなどは、言語で割り切られる意識体験に移行する以前の人間存在に関心を寄せていた。
カオスとしての物自体を、できるだけありのままに体験するような意識。ハイデガーであれば、ピュシスであり、アナクシマンドロスの哲学などが対象になるようだ。
でも、よくよく考えてみれば、現代においてもその2千年以上前の古代ギリシャに近い生活を歩んでいる人類がいるのではないか?
いや、むしろそれよりさらに原始的な生活をしている人もいるだろう。(もちろん、現代社会の生活を知る人間が自給自足をするようなアーミッシュでは意味がない。そもそも言語体系に浸ってしまっているのだから)
であれば、現代のそういう民族を観察すれば、より自然に近い人間のあり方に触れることができるのではないか?
この記事によれば、そういう集落のようなものは世界中に100以上あるようだ。
レヴィ・ストロースという人類学者が似たようなことをやっていたが、それは構造を分析するためで、実存的なあり方に重点があったわけではない。
しかし、よくよく考えてみると根本的な問題がある。
古代ギリシャで哲学が発展した理由は、奴隷が存在し、オリーブなど自然の食料が豊富にあったからだと言われている。
何もしなくても行きていける人間が多数いたから、世界のあり方を議論し探求できたのだ。
現代の未開の民族社会では、そのような余裕はないだろう。
だから、ギリシャ時代のような意識のあり方をしていないと思われる。ただ、ハイデガーがいうアナクシマンドロスは、プラトン以前の世界なのでその頃のギリシャがどのような状態だったのかはよくわからない。
いずれにせよ、ハイデガー、ニーチェ、フーコーは、古代ギリシャ時代のピュシスに近い実存の何に惹かれているのだろうか。
よくわからなくなってくる。