見出し画像

もう「人生の意味」を問うのはやめませんか?【決定的な回答つき】

「人生の意味(生きる意味)」を問う哲学者はまだ多い。

また、哲学に馴染みのない多くの人々は、「哲学」とはこういう問題を中心に扱っていると考えている。

この「人生の意味」問題は、言語の本質を見誤っているがために、ナンセンスな議論として長年続いてしまっている。

今回、これを正したい。

「人生の意味は何なのか」という問いは、「言語」を使って考えられている。思考は全て言語を通じて行われるからだ。

それゆえ、「言語の本質」を理解することがこの問いを解く鍵になる。

思考の底板を定める(ハイデガー現象学を参考に)

私は以前、そもそも「意味」とはなにかを考えていた。

そのとき、チャールズ・ケー・オグデン 『意味の意味』なるタイトルを見ただけで絶望するような本も読んだ。

ただ、そのように、言語を使って追い詰めていくやり方では「意味」の本質に到達できない。

私が最もしっくりくる「意味」論を論じているのはマルティン・ハイデガー。

主著といわれる『存在と時間』の中でハイデガーが行っている現存在の実存論的分析。

この分析が何をやっているかというと、簡単に言えば次のようになる。

われわれの主観的な生のあり方、意識の流れのような「いま、ここ」を、記述してその構造を取り出す

正直、哲学的にこのような言葉使いで言ってしまうと語弊がある。手垢のついた「主観」「意識」などを使うことを避けて、ハイデガーはあえて独自の用語を使っているからだ。

しかし、ここでは、そのざっくりした意義を理解してもらいたいので、あえて平たい言葉で説明する。

ハイデガーはつまり、われわれの「生」(あり方)ってこういう構造だよね?この枠組の中ですべての体験、経験が起きているよね?という、生を生たらしめている最も基礎的な構造を記述した。

それは、「情状性」「語り」「了解」などの言葉で説明される。

つまり、われわれの「いま、ここ」は常に、何かしらの感情的な良い悪いをベース(情状性)に、これまでしてきたこと、目の前の状態、これから何をするかの漠然とした把握(了解)、さらに、それらが、言語的に分節できる可能性(語り)、から成っている、と。

だから何?

に答えると、このハイデガーの現存在分析の意義は、つまり、人間の「生」とか「人生」「主観」「体験」というものは、「いま、ここ」に還元され、この枠組以上でも以下でもない、という最も究極的な底板としての「構造」を示した、ということだ。

これ以上、深く考察してもしょうがない、という線を引くこと。これは主観を内省して行き着けるところが最後の底板である、というフッサールからの受け継いだ現象学的方法を使っている。

神秘を認める態度

(少し脱線するが)

ハイデガーは、根拠の底板を自分の意識(現存在)においた。

しかし、この態度を取ることで、漏れてしまう根源的な問いもある。

それは、ハイデガーのそもそもの哲学的課題である「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」という謎である。

ハイデガーでいうと、「被投性」で、われわれはいつのまにかこの「いま、ここ」に投げ込まれていたのだ。

上述のように最終根拠を打ち出す現象学で一定の結論を出したものの、後期ハイデガーは、またこの底板を取り除き、存在の探求を深める方向に動き出してしまった。

この問題意識は、ウィトゲンシュタインのいう世界があることの「神秘」と通じる。

「意味」とは生そのもの

ハイデガーは「意味」についても考察している。

「意味」とは、生を成り立たせるものそれ自体であり、こうした「いま、ここ」を支えているものだ。

あらゆる対象、物事、事物は、「意味」として出会われる。出会われるものが「意味」だから。それは、表と裏で一体なのである。

生とは「意味」の不断ない連続だといえる。

夢も「意味」体験であれば、「いま、ここ」と同じ。

寝ているときに、何の「意味」体験がないときは、まさに「生」ではないのである。

「こんな作業は意味がない」といっているときも、「意味がない」といいつつもまさに意味体験なのだ。

言語行為論

ジョン・オースティンという哲学者は、言語の本質は、「伝達」「依頼」「約束」といった行為の遂行であると提唱した。 

話し手は、発話によって、「情報を伝える」、「何かを依頼する」、「約束する」などの行為をする。言語哲学では、これらの行為は「言葉を用いる行為」という意味で、「言語行為(speech act)」と呼ばれている。

言語を使うことと、何らかの意図を持って行為することは表裏一体。なんの文脈や意図もない言語使用などは存在しない。

これまで哲学において、真理の探求のため、真偽を問うような命題のあり方をめぐる議論が長らく続いていた。

言葉は世界のあり方をそのままに写し取るものだと考えるような立場は、どこかで現実との接点問題に行き着く。

言語行為論で明らかになるのは、こうした真偽を問うというような言語の使用も、1つの「叙述」のような言語行為であると考える。

言語行為はこれ以外にも、「感謝」「警告」「同意」「謝罪」「命令」「陳述」「質疑」「招待」など無数にある。

言語の本質を理解する

言語というのは、なにかの対象を指示するようなものではない。

これは言語学の父ソシュールがとっくの昔に指摘している。

言語は、対象に貼るラベルではない。

ハイデガーが「語り」として説明したのは、われわれの生における対象は全て言語的に予備的に切り出せる可能性がある、ということだ。

そして、言語は、多義的であり、その最終根拠は自らの経験でしかない。

言語の本質について、竹田青嗣『言語的思考へ』で現象学的に考察されている。孫引きになるが、以下を引用させていただく。

竹田青嗣の『言語的思考へ』によれば、言語行為とは「一般意味」を利用した各自的な意(企投的意味)の投げかけ合いであり、「企投的意味」の集合的痕跡(積み重なり)として「一般意味」が成り立っている。この考え方は「言語」の本質を鋭く捉えており、さまざまな応用が可能である。たとえば、共通了解された一般的な意味(本質)も、欲望相関的な意味の集合的痕跡として捉えることができる。使用頻度の高い企投的意味の集合的痕跡が一般意味として共通了解され、本質として捉えられるようになる、と言ってもよい。…山竹論文より

つまり、言語の意味とは、何か実体があるわけではなく、その都度、意を投げかけるときにしっくりくる語がある、或いは、誰かの意を受けるときに、納得できるかどうか、というようなものになる。

ハイデガーは存在論の中で「存在論的差異」ということで、この問いに答えている。「人生の意味」など「意味」が問題になる領域と、事実が問題なる領域は異なる。過去に宇宙人がやってきて人間を作った、のような物語的な説明はどこまで徹底しても、「意味」領域を解き明かすことはできない。

人生の意味の問いの本質

上述の議論を踏まえて、改めて「人生の意味」問題を考えてみる。

「人生の意味は?」という問いは何を問題にしているのか?

その動機はなにか?

2つの観点で考えられる。

1.「人生」が指すものは?

まず、<「人生」とは何なのか?何を指示しているのか?>という問いだ。

<「人生」が指すものが何なのかを深く探求したい>ということなら、それをずっと深く考えていくと、先のハイデガーの現存在分析にたどり着くだろう。

あの現存在分析がこれ以上ない答えだ。自己のあり方に徹底して向き合い、記述したものが全てだ。

生とは、情状性、語り、了解という構造の中で感じる意味体験なのである。

これ以上でも以下でもない。

2.人生の目的を問う

もう1つは、「意味」という語を「目的」として使っている場合。

人生に目的があるか?

人生に究極的な目的があるなど誰もいっていないし、根拠もない。

これまでの議論を踏まえて一言で回答するなら、こうなる。

人生に目的があるのではなく、目的(可能性)を常に意識しながら何をするかを選ぶ、というあり方が「生」そのものの本質的なあり方であり、それ以上遡ることはできない。

つまり、生きているということが、目的を伴った意識体験なのであり、それ以上遡れるものではない。

3.何が最高善なのか

人生の意味を問う問題の動機が、「何が善なのかわからない」という疑問から来る場合もある。

何が善か考える上でも最終根拠は自分の「いま、ここ」でしかない。

ハイデガーが分析した「生」が全てだ。

われわれの生とは、「いま、ここ」でしかない。

例えば、異性にモテるようになるために、ダイエットする、というような事態があるとしよう。

「なんでダイエットするの?」と目的を聞かれたら、「異性にもてるため」のように答えるわけだ。

それで納得する。

また、「なんで医学部に行くの?」と聞かれたら「医者になるため」と目的を答える。

さらに、「なんで医者になるの?」と問われれば、「人の役に立ちたい」と答える。

なんで、「人の役に立ちたいの?」の聞かれたら、「自分が大怪我をしたときに、助けられて救われたから」と答える。

最終的には、自分の主観的な「よい」状態が根拠となる。

それ以上は、遡ることはできない。

つまり、「よい」の根拠は自分の中にしかないのだ。

人生の意味を問う問題は、人生の目的が何か実体のようにあるとか、与えられると思っている幻想から来る。

しかし、目的なるものは、自分の価値基準をベースにしてしかありえない。

誰かから与えられるものではない。

いや、与えられたとしても、それを自分が心の底から偽りなくいいと思えばそれが自分の目的になる。

もし、

自分がやりたいことがない、何を目的にしていきればいいかわからない、ということであれば、やりたいことを探すしかない。

大きく2つの方向がある。

1つは過去の経験でよかったことを反省して、それをまた享受したいと思える何かがあるなら、そういう方向に進めばいいし、それがないなら、まだ経験したことのない享楽を探求するためたくさん行動する。

**

自分を含め人類はどこに向かうのがよいのかわからないので、知りたい。

というのも、上記の最高善を問うことと同じ動機だ。

社会貢献したいが、何がいいことかわからない、というのもそうだ。

これも同じで、「よい」の根拠は自分の中にしかない。

いくら、世界中で認められている「金」のような価値も、自分の主観で心底納得できないのであればそれはよいものではない。

最後に

以上、「人生の意味」というものに本質的に真っ向から答えてみた。

「人生の意味とは?」という問いに、何か小論文の記述式問題のように言語化して答えを出せると考えていては、一生答えは出ない。

言語で考えている時点で、まず「言語」の本質を吟味する必要がある。

れわれが言語行為のために、辞書的な「一般意味」を利用した各自的な意の投げかけ合いであり、この投げかけた「意」の積み重なりが、「一般意味」を成り立たせる。

「人生」「意味」という語が複義的で曖昧になる理由がわかる。

もし、「人生」「意味」などの語の本質を掴みたければ、自分の中でその意味を内省しその本質を取り出し、納得感を得る、という方法しか有効ではない。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?