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ドゥルーズ著「スピノザと表現の問題」第8章
第8章 表現と観念
「エチカ」において頻出する用語でよく分からないのが「形相」である。もちろんスピノザ論の本書においても頻出する。
そこでカント事典で「形相」を調べて見た。形相という見出しはないが、索引で調べると形式という見出しになっている。
それによると形相 Form とは、質料と対立するもので、再広義では質料が規定されるものであり、その規定が形相とされている。すると規定するものが何か気になるが、おそらく知性なんだろうな。
スコラ哲学では形相は存在と関わっていた。だから「形相は物の存在を与える」ということで、本質や本性、内的可能性に置き換えられうるものだ。
だが、カントは物自体の存在を不可知としているから、形相を認識のみに限定して使用したんだな。だからカント学者は形相ではなく「形式」という訳語を当てている。どちらも原語は同じだ。だから外感の形式が空間だと言うのは、外感の形相・規定が空間だということでもある。そうやってパラフレーズすると理解が進む。カント的空間・時間が形相であるなら、それは質料を現象学的に還元したものかもしれない。だから観念的なんだな。
ということで私は今後「形相」「形式」という用語が出てきたら、スコラ哲学ならば「存在規定」、カント哲学ならば「認識規定」と脳内変換しようと思う。
スピノザはスコラ哲学寄りだから「存在規定」だな。
スピノザの「思惟」は、思考だけでなく、意志や感覚も含めたものであり、「観念」は思惟の形相としている。(デカルトの哲学原理、定義)
ゆえに「観念」とは思惟の質料抜きの「存在規定」ということになる。
で、第8章は「知性改善論」の解説から始まっている。
ドゥルーズの解釈によると、「知性改善論」の第1部は哲学の目的、つまり思惟の究極の目的に関わるもので、真の観念の形相(存在規定)を対象としている。第2部はそのための手段が真の観念の内容(想念的対象)だとしている。
言いかえれば真の観念の内容を知ることが、その存在規定に達する手段なのだ。
さらにドゥルーズは哲学の目的は、何らかの認識を得ることではなく、理解力を認識することだとしている。
この二つがなぜ繋がるのかピンとこないが、本章全体を読むと、要するに真の観念の形相(存在規定)とは自己原因としての神の認識する能力であることに根拠があるようだ。つまり認識内容ではなく認識能力が観念の形相なのだ。
観念の内容ではなく、その存在規定を知るということは、つまり認識能力を知ることでもあるわけだ。
同じように認識能力を哲学の問題としたカントに似ていて微妙に違う。
カントは形而上学(神の存在規定)のために、その前提として認識能力を問題としたのだが、スピノザの場合は、認識能力それ自体が神の存在規定なのだ。
そして方法とは観念についての観念だから、観念の存在を前提とする。
ゆえに真の正しい方法は、真の観念を持つことが出発点になる。
ところで究極の真の観念は「神の観念」である。
だから「エチカ」は「神の観念」の定義から出発するのだ。
そして「神の観念」の内容を知ることが、神の観念の形相(存在規定)に到達する手段である。
それは「エチカ」の諸定理及び自然界の諸法則を知ることが、神の観念の存在規定である神の思惟能力に到達する手段ということだ。
さて、私もそろそろドゥルーズと付き合うことに心が折れた。
私見では入門書とは原典を読まなくても分かるように書いてある本で、研究書とは原典を読んでいないと分からない本だ。
ドゥルーズは言うまでもなく研究書の最たるものだから、エチカだけでなく頻繁に引用される知性改善論や短論文や書簡も読んでおかないと理解が進まない。
ということで、スピノザ全集の精読に戻り、その後で再開することにしたい。