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柄谷行人を読む理由

 柄谷行人の主要著作については折に触れて読んできたつもりだけど、今一つよく分からなかった。いや、よく分からないというのは書いてある内容ではなくて、柄谷行人の問題意識なんだな。そりゃ興味深く細かい論点は多々提起されているんだけど、言わば柄谷思想全体の問題意識が奈辺にあるのか、よく分からなかったわけだ。
 これは「探究ⅠⅡ」「トランスクリティーク」あたりから読み始めたためで、初期の一連の著作「畏怖する人間」「意味という病」を読んでいなかったためかもしれない。
 だが小林敏明著「柄谷行人論」を読むと、柄谷行人の全著作を通じて一貫する問題意識が何であったかが分かり、あらためて柄谷行人を最初から読み直す必要を痛感している。
 ドゥルーズの「アンチ・オイディプス」は五月革命の思想的所産と言われてるんだけど、わが国でこれに相当する歴史的事件があったかと言えば、それはやはり連合赤軍事件だろう。柄谷行人もまた革共同で声明文を出していたぐらいだから、学生運動のリーダーでもあったわけだ。
 で、柄谷行人の思想は、この連合赤軍事件の所産でもあるんだな。小林敏明の指摘によると、「意味という病」における柄谷のマクベス論は連合赤軍事件を見据えているという。つまり観念の暴走に翻弄されるマクベスとマクベス夫人との関係は、連合赤軍の森と永田との関係でもあるわけだ。
 こうしてみると連合赤軍事件に真摯に正面から向き合ったのは、文学では大江健三郎、思想では柄谷行人ということになる。
 思想を頭で理解することと、実存として受けとめることとは別であって、吉本や柄谷の著作が分かりにくいのは、両者の人生経験を共有していないからだ。
 つまり吉本思想は敗戦時の知識人の変節への落とし前であり(本人の講演による)、同様に柄谷思想は学生運動への落とし前でもあるんだな。彼らにとって政治闘争は思想闘争へ置き換わっている。だから思想の探求を放棄することは闘争の放棄であり、死ぬことに等しいぐらい切実な問題であるに違いない。
 ところで、いわゆる「ぶらさがり世代」の私としてはそのような切実な問題はない。だから柄谷行人の思想を賞揚しようが批判しようが、それは好き嫌いの問題であって、どちらにせよ大した問題ではない。
 一つ確かなことは、思想を頭で理解すること、つまり柄谷の文献解釈やそれに基づく立論が妥当かどうか、そんなことについて批判的に検証することは、一面的な受けとめ方に過ぎないということだ。
 近頃ではちょっと気の利いた高校生ならできるかもしれない。言い換えれば柄谷のカント解釈には哲学的センスが欠けていると批判する専門家の方が、精神の成熟度でみれば高校生並みなのである。
 だけど柄谷思想を実存の表現として捉えることは、読者である自分自身の実存への問いでもある。自分はなぜ柄谷行人の著書を読んでいるのか、なぜそれに惹かれるのか、そこには自分もまだ気づいていない何らかの理由があるはずである。
 私の世代は戦争も学生運動も経験していない。だから人生経験によって哲学を志向する特段の理由はない。
 だが過去に思い当たる事件がなかったとすれば、それは未来からやってくるのかもしれない。まだ起きていない事件についての予感に強いられているということは、ありうることだ。なぜなら何かに強いられていない限り、思考することの情熱は生じないからだ。
 戦争を知らない世代がなぜ哲学などに情熱を持つのか。それは未来の事件への予感に強いられているのかもしれない。例えばメイヤスーは1967年生まれであるが、核戦争による人類消滅を単なるSF的イメージとしてではなく、人間抜きの事物の存在問題として提起している。その思考の徹底ぶりは見事なものだ。単なる興味本位で、これほどの思考が生まれるとは思えない。
 スピノザの流行も独断論への回帰ではなく、人間中心的視点からの離脱が動機であると思う。
 してみると柄谷行人の著書を過去の政治闘争の所産として読むよりも、未来への予感に強いられて読む方が、私としては共感できるツボが多くなるのではないかと思う。

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