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ドゥルーズ著「スピノザと表現の問題」第7章

第7章 二つの力と神の観念
 「エチカ」を読んでいて感じる違和感は、やはり無限の諸属性なんだな。
 思惟属性と延長属性の二つは分かる。だけどなぜスピノザはそれ以外に諸属性が無限にあると主張するのだろうか? スピノザ自身でさえ、人間精神はその無限の諸属性が何であるか分からないことを公理としているにもかかわらず。
 デカルトもまた思惟と延長の二つしか実体を認めなかったし、また現代人である私も、その二つしかないと思う。
 おそらくスピノザ以外は、無限の諸属性があるなんて誰も思ってないんじゃないかな。少なくともスピノザの時代にそう主張している哲学者はいない。これは極めて特異な発想なのだ。
 まあ、スピノザ研究者はスピノザのテの者だから、右へならえしてるんだろうけど、マジか? と言いたくなる。
 ところが無限の諸属性を前提とすると、この世界は量ではなく質的差異の内在世界に変貌するんだな。
 なぜなら有限数の属性では実体は分割されるが、無限という限定されない条件下ではじめて諸属性が唯一の実体に属することになるからだ。
 これが現代思想ウケする魅力的なロジックになる。それで、そうだそのとおりだ、と言う人が増えてるわけだ。 

 私はスピノザがそんな発想をしたのは、やはりそういう神秘体験があったからじゃないかと思う。それはスピノザだけの特異な体験だったのだ。
 これは第7章を読んでいて、ドゥルーズの指摘によって初めて気がついたことだ。
 スピノザは「短論文」第1部第1章7節注3で、こんなことを述べている。
 短論文の原典はラテン語ではなくオランダ語しか残存していないが、重要箇所だからチェックしてみた。オランダ語なんて読めるわけないけど、困ったときのGoogle頼みだ。スゲえなGoogleは。属性がプロパティになっているが、意味は通じる。コピペして試してみるといい。ちゃんと「無限の」という形容詞がある。つまり思惟と延長以外の属性について言及しているのだ。

 oneyndige eigenschappen zelve, die ons zeggen dat z’er zyn, zonder nogtans ons tot nog toe te zeggen wat zy zyn. 

Spinoza "Korte verhandeling van God, de mensch en deszelvs welstand."

 無限のプロパティ(属性)自体は、それが何であるかをまだ教えていないのに、それらがそこにあることを私たちに教えてくれます。

オランダ語のGoogle 翻訳

 それら属性がわれわれにそれら自身があるということを-それらが何であるかはこれまでのところ告げないままに-告げている

「短論文」第1部第1章7節注3 上野修訳 20頁

 つまり思惟と延長以外の無限の諸属性が、何であるかを告げないままに、われわれにその存在を告げていると言うのだ。
 告げていないのに告げている。
 これはハイデガーの存在からの言葉なき呼び声への聴従に似ている。
 スピノザは「われわれ」と言うんだけど、私はそんなお告げは経験していない。
 だけど無限の諸属性が存在することを告げてくれるような特異な体験がもし私に生じたなら、「エチカ」の難解な論理は吹っ飛んでしまうだろう。
 スピノザと同じように第三種の認識を理屈ではなく至福として感じることができるだろう。
 「エチカ」は単なる論理的難解のみでは説明できない受容困難なところがある。それはスピノザのこの特異体験が私には欠けていることが原因だ。
 だがスピノザの偉大なところは、その体験を完璧なロジックにしてみせたことだ。だから「エチカ」を何度も精読すれば、その体験と類似したものが得られるかもしれない。

 それにしてもドゥルーズはスピノザの目立たない注釈の一部をよくぞ指摘してくれたものだ。現代の精妙博士(スコトゥス)と言ってもいい。

 さて、第7章については感想だけを簡単に述べる。
 私は常に著者の問題意識が何であるかを考えるんだけど、本章でドゥルーズが問題にしたのはタイトルが「神の観念」となっているが、むしろ人間存在だと思う。
 神の観念の想念対象は無限の諸属性の様態すべてなんだな。
 本来、観念とはそういうものだ。自分以外の属性の様態を想念対象とするのが観念なのだ。
 ところが、なぜか人間精神を構成する観念だけは、無限の諸属性の様態ではなく、延長属性の様態だけしか想念対象としていない。
 しかも身体延長という様態の変状に限定されている。
 つまり神が人間に変状した限りでの観念は、無限の属性様態を想念対象とするのではなく、延長属性様態のみに想念対象が縮減されているわけだ。
 それが何故なのか、ドゥルーズは説明しないが、おそらく神は無限に多様な仕方で様態を産出することに根拠があり、人間精神を構成する観念の強度が、神の観念より弱いというか、事象性が少ないからだと思う。
 ということは、延長以外の諸属性についても、それを想念対象としうる潜在力が人間の観念にもあるわけで、ただ活性化していないだけだろう。
 スピノザの精神を構成している観念が延長以外の他の属性の存在を声なき声として聞くことができたのは、それが根拠だ、と私は思う。

 ということは人間存在は神の様態だというけど、神の本質をすべて表現しているわけじゃない。
 無限の諸属性の中の思惟と延長だけを本質として表現しているのだ。
 ドゥルーズは、実体-属性-様態の表現関係を本質の表現としている。
 そして実体-実体の変状を存在の表現としている。それが各々、神の思惟する力と存在する力に対応するわけだ。つまり様態と様態的変様(実体の変状)を区別して、本質と存在に対応させている。この辺りの概念の区別は実に精妙だ。私は様態と変状を一緒くたにしていた。
 だから人間存在は現実存在としては神の変状なんだけど、本質としては神の無限の本質の中の二つだけを表現しているに過ぎない。
 そして人間における思惟様態も延長様態も同一の現実存在なのだ。二つの様態によって構成されているのではなく、二つの様態が同一の存在なのである。二つという量的差異ではなく、質的差異なのだ。そして現実存在としての統一は、属性を経由せずに実体から様態への直接の変状に基づいている。
 だがよく考えてみよう。
 二つの属性ならばスピノザの定義では二個の実体に分かれるはずだ。
 それが一つの現実存在であるのは、本来、二つの属性だけではなく限界のない無限の諸属性だからである。ただ人間存在においてはその無限の諸属性が活性化されてないだけだ。あるいは現代流に言えば「巻き上げ」られている。
 この不活性は、私の創意ではなく、誰かの著書で知ったことだ。記憶が曖昧で申し訳ないが、上野修の著書かもしれない。
 ただ、思惟と延長という二つの属性が人間という同一の存在であるためには、背景に数的区別ではなく限界がないという意味での無限の諸属性が不活性のまま巻き上げられていないと成り立たないと思う。これは私の意見である。

 さすがにちょっと熱くなった。酒でも飲んで寝るとしよう。

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