スピノザとメイヤスー
スピノザとメイヤスーはどちらも難解であり、そのうえ両者の関係となると私の小さな頭ではいっぱいになる。
そこで話が抽象的にならないよう、事例で具体的に考えてみたい。
事例といえば、メイヤスー自身がロックの二次性質に触れている箇所で、ロウソクを例にして説明しているので、それを取り上げてみよう。
二次性質というのは感覚的性質のことで、例えばロウソクの火に指を近づけると熱いと感じる。この熱さはロウソクに属しているのではなく、人間の指が感じている。
だけど、ロウソクがなければ熱さを感じないのだから、「熱さ」は人間だけのものでもなく、ロウソクだけのものでもなく、両者の相関関係においてのみ存在する。
で、一次性質というのは、この相関関係の外にあるもの、つまり人間とは無関係にロウソク自体が持っている性質のことだ。
だから一次性質は一切の感覚的性質の外にある。デカルトはそれを数学的対象としたわけだ。デカルトのいう延長実体とは数学的対象であって、目の前に見えている物体ではない。視覚対象は二次性質だからだ。
メイヤスーによるとカントの批判哲学以後、そうした一次性質の存在は否定されることになる。現象学では数学的対象もまたノエマとしてノエシスの指向対象とされている。
つまり世界は人間との相関関係においてしか存在しない。この相関関係の外にある存在を否定する考えを、メイヤスーは「相関主義」と括っている。
ハイデガーもまたバージョンアップされた相関主義であって、いくら世界内存在という言葉で、あたかも世界を直接捉えているように見えても、言語を透明な檻の住み家としている限り、存在の性起を人間と存在との共帰属として捉えるしかないのである。
メイヤスーがこうした相関主義を批判する論拠は、放射性年代測定である。それにより人間抜きの実在が過去に存在した事実を「祖先以前性」として、その哲学的意味を探求している。
話が大きくなるので、再びロウソクの事例に戻ると、ロックやデカルトの二次性質の捉え方は大雑把であるようだ。つまり「熱さ」という感覚的性質を、ただちに人間とロウソクとの関係として捉えている。
人間の感じる「熱さ」がロウソクに関係するのは、ロウソクが「熱さ」の原因になっており、人間の感覚はその結果だからである。
そういう意味では確かに「熱さ」は、ロウソクと人間との相関的因果関係において存在すると考えたくなるのももっともである。
だけど、これに対しスピノザはもっと繊細な眼で感覚的性質を捉えている。
スピノザはまず人間を無数の個物によって構成された身体として捉え、人間を構成している個物が新陳代謝により外部の個物と入れ換わっても人間本質は不変であるとしている。
そして構成している個物が人間の構成関係から分離することを傷害や死としている。
スピノザの定義する感覚は、この構成関係としての身体変状についての観念である。
(スピノザはデカルトと同じように、感覚も思惟様態に含めている。つまり思惟様態とは思考だけでなく、意志、感情、感覚等の心的生を全て含んでいる。「デカルトの哲学原理」第1部定義1 上野修訳全集版50頁)
これはロウソクという事物も同様であり、ロウソクもまた無数の個物により構成されている。
だからロウソクが原因となって指先が「熱さ」を感じるのは、ロウソクから分離した個物が人間身体の表面を構成する個物に衝突しているからだ。
(個物は分子原子に限らない。現代なら赤外線というエネルギー光子も個物である。スピノザは当時の自然哲学の制限下で可能な限り考察している。)
すると人間身体の皮膚は変状する。その身体変状の観念が「熱さ」という感覚である。
これは熱に限らず、光子の衝突として視覚にも同じことが言える。
スピノザによると「他の個物に変状した限りの神」は、こうした人間以外の無数の個物についての観念を持っている。
だから外部の個物は人間の知らない感覚を含む思惟様態を持っているのだが、「人間を構成する限りの神」は、人間身体変状の観念としての感覚しか知らないのである。
そしてスピノザの心身平行論によると、ロウソクの火が人間の「熱さ」の原因となっているのではない。
ロウソクから指先への個物の運動という延長様態の因果秩序はそれだけで完結しており、外部とは一切関係がない。
それと平行して、ロウソクの観念(ロウソクに変状した限りの神が持つ観念)から人間の身体変状の観念(人間を構成する限りの神がもつ観念)への因果秩序もそれだけで完結しており、ロウソクの延長様態とは関係がない。
ただ両者の因果秩序は同じ実体のものとして同一である、というのである。それが心身平行論である。
したがってロウソクと人間との相関関係などという論点は、そもそもスピノザには存在しないのだ。二次性質という概念自体が、人間とロウソクとの相関を前提する虚妄の概念である。
するとスピノザはカントの批判哲学による相関主義以前の古い形而上学、つまり独断論ということになってしまうが、現代科学からみてもスピノザの主張はイケてる感じがする。
少なくとも延長様態の因果秩序は科学として納得できる。独断論があるとしたら、それと平行する観念の因果秩序であろう。だが、実際に私が熱さを感じているのだから、熱さ自体の因果秩序を仮定するのはもっともだと納得できる。
ただ、私は未だにその秩序がいかなるものか実感として掴めていない。今のところ幾何学的秩序のような論理的推論を観念の因果秩序とイメージしているのだが、思惟様態に感覚や感情や意志が含まれるのであれば、人間以外の個物の未知の思惟様態が人間の思惟様態の原因となっていると、スピノザは言いたいのかもしれない。
もっと「エチカ」を熟読する必要を感じている。
ただ素人の直感だけど、この「熱さ」という感覚が生じる因果秩序が延長様態の因果秩序と平行して同一であるというのは、説得力を感じる。
それはロウソクが指の皮膚を変状させるという事実と、熱さを感じる事実が同一の事柄の異なった表現である、ということだ。
(この疑問はChatGPTに「観念の因果関係の具体例を教えてください」と質問することである程度解消した。なんと、「コップを動かす意志」という観念が原因で「コップが動くのが見えた」という観念が結果だというのである。なるほどスピノザはデカルトと同様、意志や感覚も観念に含めている。確かに観念同士が因果関係になっているようだ。AIは人間を超えたと私は実感した。)
これに対して、ロウソクの火が原因で熱さという結果を感じるというのは、たとえ常識的な言い方であっても、物体と心の因果関係が解明されていないのだから、粗雑で無意味な言明である。