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スピノザの「本質」と「本性」の差異
私は「エチカ」を読みながら、「本質」と「本性」は同じ意味だと単純に思い込んでいたが、読み進めるにつれて両者を区別しないと理解しがたい局面にぶつかった。それは後で詳述するとして、まず両者の違いについて、私見を述べてみよう。
実は両者の違いは、「エチカ」の冒頭の定義にある。
Per causam sui intelligo id, cujus essentia involvit existentiam, sive id, cujus natura non potest concipi, nisi existens.
「自己原因」によって私は、その本質が存在を含むもの、言いかえれば、その本性が現に存在するとしか考えることができないもののことと解しておく。
このように本質と本性は日本語としては語感が似ているが、ラテン語ではessentiaとnaturaとなっており、大違いである。
そこで、これはひょっとしたらジジイの個人的妄想であるかもしれないが、仮説として提示しておく。
私見では「本質」とは原因それ自体であり、「本性」とは神の無限知性が捉えた原因、つまり「認識された本質」である、と考える。
なぜなら「現に存在するとしか考えることができないもの」として本性を定義しているからだ。
だから両者は「原因」という意味では同じであり、スピノザもまた「本性ないし本質」という言い方をしている。(第1部定理36証明)
だが注意深く「エチカ」を読むと、明らかに両者を区別しているのが分かる。それは個物について言及されている箇所だ。
神については本質と現実存在が同じだから、本質と本性は同じになる。だが個物については本質と現実存在が分離している。だから本質と本性を区別する必要が生じるのだ。
つまりスピノザが「個物の本質」と言う場合、それは常に神と関わっている。だが個物同士の因果関係について言及する場合は「個物の本性」という言い方に変わっている。
Omnes modi, quibus corpus aliquod ab alio afficitur corpore, ex natura corporis affecti, & simul ex natura corporis afficientis sequuntur
何らかの物体が他の物体から変状される仕方はすべて、変状される物体の本性と変状させる物体の本性の両方から同時に出てくる。
なぜスピノザは物体の本質essentiaとは言わず、本性naturaと言うのか?
それは現実態の個物が本質essentiaを含まないからだ。
個物の本質は神の属性本質に含まれていて永遠不滅だが、個物の現実存在は本質の外にある。だから現実態の個物は可滅なのだ。
だが本質を含まない現実態の個物においても、知性が捉えた本性は含まれている。つまり個物の本質それ自体は個物の外にあるが、認識された本質はは本性として個物に含まれている、ということだ。
例えば本質を力動的本質として、結果を産み出す力としての原因と捉えると、結果の認識は原因の認識を含む(第1部公理4)ということになる。
さらに具体例では、私の原因は親として私の外にあるが、親が原因であるという認識を私は持っている。
いずれにせよ、本質を含まない現実態の個物について本質を言及しようとするなら、認識された本質、つまり本性として言及するしかないであろう。
私が「本質」と「本性」を区別する必要を感じたのは次の定理である。
Hinc clare intelligimus, quid sit Memoria. Est enim nihil aliud, quam quædam concatenatio idearum, naturam rerum, quæ extra Corpus humanum sunt, involventium, quæ in Mente fit secundum ordinem, & concatenationem affectionum Corporis humani.
ここから「記憶」とは何かということがよくわかる。すなわちそれは人間身体の外にある諸事物の本性を含むもろもろの観念の、ある種の連結にほかならない。そうした観念の連結が人間身体の変状の秩序と連結に従って精神の中に生じるのである。
この定理は文脈からして現実態の人間精神についてのものである。
だが、もしこれが「諸事物の本質」となっていると、この記憶は、神の記憶になってしまう。現実態の人間精神は、本質を含まない現実態の個物しか認識しないからだ。(第2部定理11)
それに「諸事物の本質」についての観念の連結は、諸事物それ自体の連結秩序に従うのであって、人間身体の変状の連結秩序に従うことはあり得ない。
だが、「諸事物の本性を含むもろもろの観念」となっている。これは、外部の諸事物の本性だけでなく、身体の本性も含むという意味である。だから人間身体の変状の秩序に従うのである。つまり本質それ自体の秩序ではなく、認識された本質としての本性の秩序である。
それは「諸事物の本質」とは別物の観念の連結であり、人間身体の本性との混合として「認識された本質」であるがゆえに人間精神には誤謬が生じるのである。
またこれは後の話になるが、現実態の人間という個体には本質が含まれていないとはいえ、本質そのものを直接表現している本性がある。
それがコナトゥスであるが、この場合、スピノザは本性を現実的本質とか、与えられた本質と言いかえている。
神の現実存在は永遠不滅だが、個物の現実存在は有限可滅である。
したがって現実的本質という概念は、有限可滅の様態が表現している本質である、と私は解する。
実際、人間はコナトゥスを有していても可滅である。
我ながらだんだんヤバイと感じてきたので、そろそろ「現実態」へ戻ろうと思います。