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「ただ一人」生きる思想(八木雄二著)

 本書は特に哲学の必要性が声高に主張されているわけでもないが、読んでいるうちに哲学の必要性が自ずと実感できる。
 例えば国の制度や憲法についても、本来それらの背景にはロックやヒューム、ホッブスなど人間についての深い洞察がある。それらの洞察が、つまり哲学がない限り、制度や法律は人間本性から乖離してしまうことになる。そして人間本性から乖離した制度が必ず腐敗することは歴史によって証明されている。
 日本では伝統的に文学・哲学が軽視されているが、そのことには現実の根拠があると著者は指摘している。つまり日本は明治維新においてプロシアなど諸外国から国の制度や憲法を輸入したため、哲学の社会的必要がなかったということである。
 この著者の指摘を現在にあてはめてみると、一方で人文学部の縮小を指示しつつ、他方で憲法改正による自主憲法を目指すということがいかに矛盾した政策であるかが分かる。哲学を軽視する国民に自主憲法を制定する資格などあるわけがない。そんな阿呆な国家ならば借り物の憲法がお似合いであろう。
 以上は社会的有用という視点からみた哲学の必要性であるが、さらに人間精神の視点からみても哲学が必要であることが本書により納得できる。
 著者によると哲学以外のすべての学問は一般を対象としており、したがって人間一般が問題とすることを対象としているに過ぎない。自然科学が有用であるのは、多くの人間が平均的に問題とするレベルの問題を解決しているからであり、そのため多数から支持されるのであるが、しかし、人間が抱える問題はそれですべてではなく、その人独自の問題もある。むしろその独自の問題の方が切実である場合もある。哲学が細々とした流れであっても絶えることがないのは、そのような問題を思考しているからというわけである。
かくして本書は読んでいるうちに、いつのまにか中世思想の中に入り込むような仕掛けになっていてスリリングである。
 一般ではなく個の問題を思考することは意外と難しい。アリストテレスは個物についての学問は存在しないとしている。著者によると哲学において個物を思考することが可能になったのは、アリストテレス哲学ではなく、キリスト教の三位一体論によるとしている。
 アリストテレスの説では形相が個物に分かれるのは質料による。例えば人間性がAさん、Bさんの人格に分かれるのは、人間本質という形相が質料によって個別化されるからである。
 このことはAさん、Bさんの人格が交換不可能であり共有もできないのは、Aさん、Bさんの質料(身体)が個別化されているからだということになる。
 これに対してスコトゥスは質料という低次の個別化が、形相の個別化(各人の人格)になるのはおかしいとして、形相(人格)それ自体に個別化原理を求めたということである。
 著者によると、このことは人間精神が人格として個別化しているのは、人間精神それ自体の中に根拠があるということである。
 もっとも人間精神が様々なことに受動的に従属しているのは確かである。
 例えば言語にも身体状況にも従属するであろうし、そもそも自分の精神は自分で産出したものではない。だから精神の自立というのはありえないように思われる。
 だが、それでも精神はそれらのすべてを否定して従属を拒絶することができる。これは現実を無視した大人げない意地っ張りなのだが、それでも従属を拒絶することができるということに、精神の自立があると著者は指摘している。
 逆に精神の従属を拒絶できなければ、そのとき、精神はなくなるのである。他のものに完全に従属している精神は、自分を精神として捉えることができない。このことは、精神は思考している限り自立していることを意味しており、つまり人間精神の個別化原理は思考の中にあるということである。  
 これがなぜ三位一体論と関係するかであるが、スコトゥスの個別化原理は、元々、神のペルソナを論ずるためのものであり、結果として人格(パーソナリティ)に結びついたということである。このペルソナについての思考は私には難解なのだが、ただ、読んでいるうちに、これがスピノザの実体と属性の関係に繋がっているのは確かであるように思われる。
 例えばドゥルーズはスピノザの実在的区別は数的区別ではないがゆえに、スコトゥスの形相的区別と本質的に同じものだとしている。
 以上から帰結することは、精神は孤独であるということであり、孤独を怖れることは精神を怖れることに等しいということである。著者によるとスコトゥスは人間精神に神を拒絶する自由も認めており、逆に拒絶しうるからこそ、自立した精神による信仰が成立するとみていたとのことである。信仰もそこまで深遠になると確かに能動的である。
 現代は個人主義によって個が尊重されている時代であるはずだが、その割には個についての思考が決定的に欠けている。そこにはアンバランスがある。本書を読んでそのような感想を持った。
 それって実存哲学? と思われるかもしれないが、個の問題を実存哲学とするなら、ソクラテスから始まって哲学はすべて実存哲学になってしまう。
 だから実存哲学とは個の問題を現象学的に考察するものだと限定すれば、それは前期ハイデガーとしてハイデガー自身が終わらせたものだ。
 現在は個の問題を神学的に考察することが重要になっているのかもしれない。スコトゥスやスピノザ、後期ハイデガーはそういう意味で注目されているのであろう。

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