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スピノザの「人間精神」
スピノザの人間精神はダブスタのように感じられることがある。
一方で、人間精神は「その身体の中に精神によって認知されないような何かが起こることは決してありえない」(2部定理12)とある。
ところが他方で、人間精神は「人間身体そのものは認識しない」(2部定理23証明)としているからだ。
二つの定理は一見矛盾している。
この点については、定理12は神が把握する人間精神、定理23は人間が把握する人間精神と区別すれば矛盾はない。
ここで論点としてみたいのは、どのようなロジックでこの区別が成り立っているかである。私がこの論点を重要と思う理由は、なぜ人間精神において虚偽や悪が生じるのかという論点について基礎的な視座を与えるからである。
私見ではスピノザの「人間精神」を理解するうえで、第2部定理11ほど重要な定理はない。
人間精神の現実的な有を構成する最初のものは、現実態として存在する何らかの個物についての観念にほかならない。
スピノザは愛、欲望などすべての感情を含む心的現象を思惟様態としたうえで、その形相を「観念」としている。
そして愛や欲望などの思惟様態は対象となる思惟様態が不可欠だが、観念は他の思惟様態を必要としないとしている。(第2部公理3)
例えば愛という具体的感情は愛する対象がないと成り立たないが、愛の観念は愛する対象がなくても存在する。
これはフッサールのいう形相的還元、つまり愛する対象の存在を判断停止して、愛の形相が残余として残ることと類似している。
だから他の様態を必要とする思惟様態よりも、他を必要としない観念が人間精神を最初に構成することになる。
ところでスピノザが神以外の個物について「現実的」とか「現実態」と言うとき、それは語感に反して何ら積極的意味はない。個物の「現実態」とは有限かつ可滅ということだ。逆に「存在しない個物」が神の永遠相の属性本質に包含される。この「存在しない」は持続相において現実存在しないということだから、現実存在する個物よりも神に近いと言える。いわば現実存在する神の属性本質の圏内で個物の現実存在は消滅し、存在しない個物になるのである。
言いかえれば個物の現実態は神の属性本質の圏外にある。
したがって「人間精神の現実的な有」とは、有限かつ可滅の持続相の人間精神であり、神が把握している人間精神ではない。
同様に「現実態として存在する何らかの個物」もまた、有限かつ可滅の個物であり、本質の外にある現実存在である。
だから、ここで言う「個物についての観念」とは、個物の本質を含まない観念のことである。
こうしてみると、この定理の言っていることが徐々に明確になってくる。
現実的な有としての人間精神、つまり有限かつ可滅の現実存在としての人間精神を構成するものは、本質を含まない個物の現実存在についての観念である、ということだ。
すると、この定理11が、定理23「精神は、身体の変状の観念を認知する限りにおいてでしか自己自身を認識しない」を基礎づけていることが分かる。
人間身体が数が月で外部から取り込んだ栄養素と入れ替わるように、人間精神も無数の外部物体についての観念によって構成されている。
神は外部物体の本質を把握しているから、外部物体によって構成される人間身体のすべてを認知しているが、人間は外部物体の本質抜きの現実存在しか知らない。それが「現実態として存在する何らかの個物」についての観念という意味だ。
だから神の属性本質の圏外にある、現実的有としての人間精神は自分の身体の変状についての観念しか認知しないということになる。
このことが、様々な誤謬や悪が生じる根源になることは容易に類推できるであろう。
そして有限の人間精神が本質を含まない個物の現実存在しか知らないということは、ハイデガーのいう「存在了解」、つまり存在の意味が分からずに存在を了解していることに類似している、と私は思う。
本質を含まない個物の現実存在を本質と取り違えること、それは存在者を存在と取り違えることであり、表象を本質=原因と取り違えることでもある。それが誤謬である。
また有限可滅の人間を愛することを愛の本質と取り違えると、NTRする他者を憎悪し、場合によっては殺すという悪になる。
愛の本質は「存在しない個物」としての人間、つまり神の属性本質の圏内に保存されている人間の形相的本質を愛することである。それはいかなる憎悪も排除も否定もなく、無限に増大する喜びである。
だがそれはスピノザの定理により、現実態としての人間精神には不可能なことである。現実態としては憎悪と苦悩から免れることはできない。それはそうだろう。苦しみのない愛はリアルではない。人はリアルを求めるとき、苦しむ運命にある。人は好んで苦しみ、隷従するのである。シュティルナー流の言い方をすれば、自由な権力者も愛人の我がままに隷従するのである。
人間の形相的本質を愛することは、人間精神それ自体もまた現実態から離れて形相になること、つまり神の属性本質に含まれることである。