「夜戦と永遠」佐々木中著
本書はラカン、ルジャンドル、フーコーの三者をめぐる論考なのだが、フーコーが全体の約半分を占めている。そのフーコー解説の前半は一見単なる要約紹介のように見える。
著者が断っているように、既知の場合は飛ばし読み可ということだが、『監獄の誕生』と『精神医学の権力』『異常者たち』という著者による選択が重要であって、この選択のラインが、ラカンとルジャンドルへの対抗軸となっていることに留意する必要がある。つまり選択することが解釈になっている。
フーコーのこの三つの書がなぜ重要かと言えば、著者は明言されていないが、この三つによってフーコーは言語(テクスト)の至上性から距離をとるようになったからであろう。
確かにフーコーは理論的にはエノンセがテクスト外の制度的実践の結果(効果)であるとして『知の考古学』において既に言語から距離をとっていたのだが、その理論を実践したのがこの三書であろう。
その意味で『知の考古学』は前期フーコーの総括ではなく、後期フーコーの出発点である。フーコーとラカン・ルジャンドルとの対立は、この言語の至上性をめぐるものである。つまりラカンもルジャンドルもまだ言語へのこだわりが強いのである。
ルジャンドルはラカンが言語しか眼中になく、制度分析を無視していると批判するのである。だが、そのルジャンドルもまた法制史の専門家としてテクストを重視するのである。著者のいう「中世解釈者革命」とは、中世においてローマ法が発掘されて、それを200年かけて注釈する作業の中で、現代の学問研究に通じるスタイルが確立されるとともに、法典の再解釈、テクストの書き換えが、教皇を中心とするヨーロッパ世界(キリストの身体)を生んだということである。このような考えは、フーコーからみると、あまりにもテクスト中心主義であると思われるであろう。
ルジャンドルに師事する著者の意図としては、おそらく言語しか眼中にないラカンと、言語から距離をとり生権力を重視するフーコーの中間にルジャンドルの制度分析が位置するものとして、両者を媒介する視座を得るという企てがあったのかもしれない。
文学の定義を広くとり、文学こそが革命であるとするのが、著者の一貫した主張だからである。
テクストが文書だけでなく、生のスタイルも含まれると定義するならば、確かにフーコーの生権力とテクストは対立するものではないのかもしれない。
だが、やはりテクストに対する根本的な態度としては、ルジャンドルとフーコーの間に妥協の余地はないように思われる。
この点、著者は極めて誠実であり、論敵であるかもしれないフーコーにかなりの部分を割いて論究している。だから読み手としては、なおさらフーコーの優位性が際立っているように見えてしまうのである。
それにしても本書は唸るほど素晴らしい。難解なことが、これほど巧みに整理されて分かり易く述べられている本は珍しい。
とはいえ適確な文献引用と1686箇所に及ぶ註釈のてんこ盛りであり、立派な学術書でもある。にも関わらず、何か過剰なものがある。
確か本書では何が真理であるかとか、テクストの真意とか、確固たる典拠などは問題になっていないはずである。にも関わらず学術書の体裁を整えているのは、所詮コミュニケーションが不可能だからどうでもいいというのではなく、不可能だからこそ読み手に対して真摯に伝える努力をされているからであろう。
それにしても、今時の哲学書でここまで読者に届く言葉で書かれた本は珍しい。文体はざっくばらんである。文献考証が完璧になったサルトルという趣きがある。無味乾燥と思われた概念が寸鉄釘を打つように、読み手の心に響いてくる。
これほどの労作大作に、このような感想で応じるのは心苦しくおこがましいと自覚している。
同じ著者の訳書に「ツァラトゥストラかく語りき」があるが、題名から分かるように、現代文と擬古文を自由に往還している。現代文だから、文体を現代文で全部統一するという堅苦しさがないところが素晴らしい。文体の統一よりも読み手の心に訴える効果が重視されている。やはりニーチェの詩の部分は擬古文でないとアカンじゃろ。現代文では心に響かない。
私の個人的趣味としては「ツァラトゥストラはこう言った」などという題名はいくら文体統一とはいえ、やめてほしいものだ。多くの翻訳者が題名を「ツァラトゥストラ」でとめているのは、現代文と擬古文との葛藤が無意識にあるんじゃないかと思う。だって「かく語りき」という題名で本文が現代文なのは拙いと自制しているからじゃないかな。マジメか。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?