ニーチェを好きになる本
ニーチェについては、ちくま学芸文庫版の全集を持っているんだけど、どうもあの大言壮語が苦手で、ほとんど読んでいない。
それでドゥルーズの「ニーチェと哲学」を参照したりするんだけど、他のモノグラフと同様、ニーチェを読んでないからイミフだった。
日本のニーチェ入門書は人生論風のものは論外として、マジの研究者によるものでも、ニーチェ自身が病人でルサンチマンの塊だったという、もっともなことだけど、あまり生産的でない批評もある。
そこで、ニーチェを読みてええ・・・ と刺激になる本を紹介したい。
それは「ドゥルーズと革命の思想」だ。
この本は鹿野祐嗣ら四人の研究者によるものである。
その中の山﨑雅弘著「«永劫回帰»の体験と体現」は、ニーチェの視点に立ってドゥルーズを批判するというもので、鹿野祐嗣の論文と併読すると、さながら日本版ニーチェ・コロックの観を呈している。
つまりドゥルーズよりもニーチェの方が興味深く思えてくるんだな。
それによると、ドゥルーズはニーチェの「永劫回帰」を存在論化したわけだけど、そのことによって永劫回帰の内在的体験が抜け落ちたのではないか、と批判している。つまり同一者ではなく差異が回帰すると変更したところで、永劫回帰を外側から眺めて、いわば傍観者として存在論化していることに変わりはないということだ。
で、その抜け落ちた内在的体験はクロソウスキーが継承したと述べられていて、それは「ニーチェと悪循環」だけでなく、ロベルト三部作や映画を含め、クロソウスキーの全作品によって、そのことが検証されている。
つまりニーチェを読むということは、ニーチェと同様に自分の頭から自己が抜け出し、ニーチェとかクロソウスキーという固有名を失うことでもあるわけだ。それは思考放棄ではなく、むしろ過剰なまでに明晰な思考である。
「我思うゆえに我あり」の我は、もはや自己でも他者でもない思考の主体であり、それが強度の思考だとしている。
この論文が説得力があると私が感じる理由は、バタイユの「無頭人」というイミフの本が突然明瞭になったからだ。
この本もまたバタイユを中心とする鏘々たるメンバーによる共著だけど、バタイユとクロソウスキーがニーチェを核として共同戦線を図っていたことが分かる。
つまりバタイユの言う「無頭人」とは、永劫回帰の内在的体験によって自分の頭から自己が抜け出した人間という意味であることが明確になった。
その後のクロソウスキーがこの「無頭人」を生涯にわたり実践したことは間違いないだろう。
それはまたニーチェの言うとおり、自己の全存在を賭けた読書でもある。読書のあり方は様々だけど、そこまで突き進む読書もあるということだ。
ニーチェこそがルサンチマンの塊だって? それはそのとおりだけど、そんなことを言って何になるだろうか。愛情がない言葉だ。ニーチェとともに自ら没落する覚悟がないならば、ニーチェを読むべきではないだろう。