スピノザの「十全な観念」
どうもスピノザは難解ですね。初歩的なところで躓いてしまう。
分かった!と思って、勝手に暴走してしまうことがしばしばある。
そもそも何故、スピノザは真理・虚偽以外に、十全・非十全という区分を必要としたのだろうか?
それはスピノザが「虚偽の観念」を真理との対立関係で捉えていないからだ。虚偽とは十全と非十全の取り違えなのだ。
で、十全な観念とは原因を含む観念であり、非十全な観念は原因を欠いた観念だ。
だから「虚偽の観念」を真・偽という水準ではなく、より大きな複合度の水準における混同関係に位置づけているといえる。
それに神が産出した諸観念はすべて真理であって、虚偽であるはずはない。虚偽はあくまで人間の取り違えによるものだ。
そういう意味では非十全な観念も欠如部分を自覚すれば、つまり欠如した観念を取り除けば部分的には真理なんだな。
ただ原因を欠いているにも関わらず、原因を含んでいるという思い込み・取り違えが虚偽なのだ。
だからスピノザが十全・非十全の区分を必要としたのは、神が産出した諸観念が真理であるという前提で、虚偽を説明するためである、と私は思う。
(これは神が産出したものが善であることを前提して、悪を説明することと並行するだろう。)
このことを「エチカ」に即してみてみよう。
次の二つの公理・定義を読むと、最初、私はその二つが矛盾しているように思った。公理では「対象と一致しなければならない」といい、定義では「対象への関係なしにそれ自体で」と述べているからね。
第1部の公理が言っていることは、対象と一致していないような観念は存在しないってことだ。神が産出した観念に虚偽は存在しないからね。
観念は常に真なる観念として対象と一致していると述べているだけで、対象と一致することが真なる観念の原因だということではない。
スピノザの心身並行論によると、思惟様態と延長様態とは並行して一致するが、両者の間に因果関係はない。属性はそれ自体で閉じている。
だから事実による検証は、思惟様態と延長様態が並行一致することを確認するだけの当たり前の真理であって、真理の原因ではないということだ。ただ結果としての表象という部分的真理があることを確認しているに過ぎない。
第2部の定義で「対象への関係なしにそれ自体で」というのは、十全な観念は原因の観念をすべて含んでいるから、そしてそれらの観念は真なる観念として対象と一致しているのだから、真なる観念で構成された「十全な観念」自体はもはや対象への関係を必要としないということだ。
例えば「富士山は日本一高い山である」という命題は、そのことの地球物理学的な原因を知っていれば、日本中の山を観測して廻るまでもなく、それ自体で真理である。
つまり「真なる観念」と「十全な観念」は観念の複合度が違うことに配慮すれば「対象の一致」と「対象への関係なしにそれ自体で」というのは矛盾ではない。両者は水準が異なる局面だからだ。
整理してみよう。
① 単純観念も複合観念もすべて神の産出として真理である。
② 十全な観念も、単純観念の複合として真理である。
③ 非十全な観念は、単純観念と単純観念の欠如との複合を、複合観念と取り違えた観念である。つまり複合していないものを複合とする虚偽である。
言い換えれば「非十全な観念」は神の産出した観念ではないんだな。
観念ではないもの(観念の欠如)を含んでいるにも関わらず、十全な観念と取り違えた人間の生み出した妄想なんだ。
ということは「非十全な観念」であっても、その欠如部分を取り除いてやれば「真なる観念」になる。(欠如を取り除くというのは面妖だが、要するに欠如を欠如として自覚するということである。)
スピノザの例だと、太陽が硬貨の大きさに見えること自体は「真なる観念」だ。
しかし「太陽が硬貨の大きさに見える」ことを原因として、実際に太陽が硬貨の大きさである、と結論することが「虚偽の観念」になる。
硬貨の大きさに見えるのは原因ではなく結果であって、本当の原因(太陽との距離)の観念が欠如しているからだ。
だから自然科学は原因の観念が欠如していると自覚している限り「真なる観念」なんだな。そして実際に自覚している。力や運動については変化として捉えるだけで、それ自体の原因としての本質は問わないことを方法論的前提としているからね。
哲学の分野では現象学も真理だ。現象学的還元によって存在を保留しているわけだから、還元後の現象には、原因としての存在が欠如していることを自覚的方法としている。だから取り違えはない。
つまり「太陽が硬貨の大きさに見える」ということは、現象学的還元により太陽の存在を保留する限り、感覚的真理だといえる。
さすがに今回はちょっと疲れた。酒でも呑もう。