【書評・レビュー】限りなく透明に近いブルー 村上龍
日本で日本人に生まれて、この本 「限りなく透明に近いブルー」の名前を聞いたことがない人間はかなり少ないと思う。
「歴代最も売れた芥川賞作家の作品」としても有名なことで昔から読んでみたかったという点が一つ。
また、僕が好きなラッパーである舐達麻のBADSAIKUSHが少年院時代にこの本を読み、影響を受け自身の猫に本作主人公の「リュウ」と名付けているエピソードを知って読んでみようかという気になった。
感想
単刀直入に結論から述べると、全く面白いと思えなかった。
ここまで小説を読み通すのが苦痛だったのは初めてかもしれない。
世に語り継がれているマスターピース的な作品だから最後まで読めば何か変わるかもしれない、と噛みしめながら最後まで読んだ。
そう感じた理由を列挙していく。
セックス・ドラッグ・暴力のテーマ自体から漂ってしまう陳腐
この作品のウリと言えば、セックス・ドラッグ・暴力という世間の良識に真っ向から反対するインモラルさと無軌道な青春を露骨かつ鮮やかに描写したことだろう。
ただ、70年代の今よりずっと保守的な日本ではそれは相当センセーショナルなテーマだったのだろうが、
令和に突入して何年も経った今だとそのテーマ自体がクリシェに感じてしまう。
60年代アメリカのヒッピーやサイケムーブメントのノリしかり、70年代イギリスのセックスピストルズのような反道徳パンクバンドの隆盛しかり、どこかで見聞きしたコンセプトだな、と感じてしまう。
性描写が露骨かつ冗長すぎる
これは完全に僕個人の好みでもあるのだが、自分は小説や文学において露骨な性描写や表現が好きではない。
別にキリスト教福音派やイスラム教徒みたいに性に潔癖なわけでは全くないし、性愛のコンテンツには非常に関心があるのだが、この作品はあまりにexplicitな性描写の場面が多すぎてげんなりする。
人物描写が少なく感情移入しづらい
この作品は登場人物がとても多い。群像劇だから当然だけれども、
各々の登場人物の背景が深く描かれていないのだ。
そうすること(=登場人物の性格やバックボーンについて説明的な描写をしないこと)によって斬新性や特殊性、この登場人物のグループのみんなの関係性の薄さ、刹那性や、リュウの視点の客観性を際立たせたかったんだろう、そういう意図があったのだとは思う。
これが自分にはハマらなかった。
シンプルに誰が誰かわからなくなる。
例えば、同じ反社会的な若者を描いた青春群像劇として、松本大洋の青い春という短編オムニバス集があり、その中に収録されている「しあわせなら手を叩こう」という作品がある。
あらすじだが、不良校でアタマを張っている九条という主人公がいる。
そして、不良グループで九条に次ぎNo2ポジションの青木というもう一人の主人公。
九条という人物はどこかカリスマオーラを漂わせており、冷めた人物だ。
ベランダゲームというベランダでは柵の外に立って何回手を叩けるかを競う通称「ベランダ・ゲーム」というゲームがこの高校には存在する。
誰よりも多く叩いた者は学校を仕切る事が出来るが、失敗すれば校庭に真っ逆さまという伝説の根性試しゲーム。
これでもっとも手を多く叩いた記録を保持しているのが九条なのだ。
そんな九条に対して青木は自分たちに反抗的で気に入らないとんがった後輩を九条にシメてほしいと要求する。
しかし九条はそんな青木の要求をけんもほろろに断り、
「後輩のしつけくらいテメーでやれ、青木」と突き放す。
青木はこれに激しく憤りと劣等感、虚しさ入り混じった感情を持つ。
結果、青木は九条を超えるためにベランダゲームで九条を超える記録を出し、死んでしまう。
少々話が脱線してしまったが、この場合、登場人物の関係性や心情がはっきりわかり感情移入ができる。
限りなく透明に近いブルーからそういった人物同士の機微を感じることができなかったのが個人的には残念だった。
名作を好きだと言えないことはなんとなく後ろめたいが・・
万人に認められている村上龍のような本作をはっきり「面白くない」と論じることは少々勇気が必要だった。
「お前の感性や読書IQが足りないだけ」
と言われたらそれまでであるし、返す言葉がないからだ。
村上龍の「限りなく限界に~」と似たような読後感と言えば金原ひとみの「蛇にピアス」を思い出す。
蛇にピアスは僕が多感な中学生くらいの時に社会現象になった作品だが、
タトゥー、セックス、スプリングタンなどのテーマが全く共感できず浅薄なセンチメンタルさというか、ケータイ小説みを感じたのを覚えている。
以上だ。
自分の口には合わなかったが、戦後日本文学の名作として名高い本作を読み通したことは多少満足感がある。
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