純粋さは、経験という名の試練に耐えられるか。
前回記事で親は子供の純粋さに育てられるということを書いた。大人になる過程で失うものの多さを子供は教えてくれる、大切なことはいつも子供が教えてくれる。
大人になる過程で失うもの。
今回はもう少しその点を考えてみた。
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歳を重ね、経験を重ねていくと視野の広がりを感じる。
色んな人に出会って物事の解釈の多様性を学ぶ。世界の色んな人に出会って価値観の違いの大きさに愕然とする。辛い経験を乗り越えた時、違う世界が見えるようになる。
自分の正直な気持ちを口にしたら傷つく人がいた。良かれと思いやったことが誰かの迷惑になった。自分の喜びを表現することが、誰かにとっての嫉妬になる。
こんな色んな経験を重ねることで、世界の多様性に気づく。
そうして、僕らは「大人」に仕上がっていく。
社会で円満にやっていく、他人とうまくやっていくとはどういうことかを学ぶ。場面に応じて適切な振る舞いをする。相手の気持ちを考えた行動をする。迷惑をかけないように。
それが出来ない人は「子供」。
出来る人は「大人」。
人が社会的な生き物である以上、他人と円滑にやっていけるというのはある意味で必須の「社会的スキル」であり、純粋さを押し通した先にある衝突、葛藤、多大なストレスを考えると、生き延びる上でも必要なプロセスに思える。
経験を重ねることによる視野の広がり、世界観と価値観の広がり。
こんな言い方をすれば、何も否定すべきことではないように思える。
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一方で、子供の純粋無垢な笑顔、はち切れんばかりに不満を表明する姿、いつも素直に自分自信を何のためらいもなく表現する姿を見ていると、
「本来こうなんじゃないか」と思えてしまう。
それこそ人の本来の姿なんじゃないのかなって。
子供の純粋さに素直に心を温められるのは、きっと大切なことを教えてくれてるからだと思う。
純粋さが人の原石なのであれば、「大人になる」というのは、その貴重な原石を損い続けるプロセスのようにも感じてしまう。
そんな感覚がある。
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真実とは、経験という名の試練に耐えうるもののことである。
(アインシュタイン)
きっと、そういうことだ。
純粋さが人の原石、真実なのであれば、それは「経験」という名の試練に耐えて、その後になお残るもの。
「社会性」という名の美言に惑わさせることなく、経験を重ねることによる「視野の広がり」「価値観の広がり」に負けることなく生き残るもの。
社会に生きるぼくらは、他人のことを考えて生きなきゃならない。だから、社会でうまくやっていくというのは大切なこと。
でも、もっと大切なことは自分の気持ちを大切にすること。感情を捨てることなく、「感じること」。
感じたことを素直に表現すること。
純粋さという宝物を守ること。
他人とうまく接することが出来なくたって、大好きなことが真っ直ぐ見えてればそれでいいじゃない。
他人の迷惑なんて考えずに、たまには思いのままに叫んでみたっていいよ。
それが、自分の感じたことそのものなら、素直に表現することが一番大切なことなんじゃないかな。
「空気を読む」なんて言葉は一切忘れて、自分を表現してもいいんじゃないのかな。
純粋な感情、感覚。
感じること。
表現するということ。
それは、とりもなおさず、自分を大切に扱うということ。
ぼくは、経験という名の試練に耐えられるか。
そこを問われている気がする。