自分の心に従うことの難しさ
「自分らしさ」という言葉がよく使われる社会になったと思う。
例えば自分らしいファッション、メイク、仕事、恋愛。自分らしい選択をする人が増えてきた一方で、「自分らしい」を突き詰めることが良しとされる社会故の難しさも見えてきたように思う。
まず、自分らしさとはどこまで許されるのか。
「私は仕事をしないのが自分らしくて好きなので仕事をしません」
「僕はなんでもはっきり言うのが自分らしいと思うので誰にでもなんでもはっきり言います」
だいぶ極端な例だが、このような言葉を発信してる人がいたらどう思うだろう。「自分らしさ」を突き詰めた結果だと本人が言えばなんでも許されるのだろうか。素晴らしいと讃えられてしまうだろうか。
自分らしさを追い求めるのはどこまで許されるだろう。その境界線は誰が決めるだろう。常識という規制の中で自分らしさを追い求めなくてはいけないのなら、それは真の意味での自分らしさではないと思う人もいるだろう。
自分らしさを求めること=自由を求めること
私はこう考える。だいたいの人もそう捉えているんじゃないだろうか。
では自由はどこまで許されるんだろうか。
自由がありすぎることで選択に迷うことも多いだろう。皆が路頭に迷うことは決していいことではないんじゃないだろうか。だからルールができていく。ルールを守ることで秩序が保たれるし、自分以外の人々も幸せに暮らせる。
(ルールというのは法律などから、ある程度の常識も含まれるだろう)
そして、ルールが厳しいと思う人が出てきたことで「自分らしさ」を追い求めたいと考え、ルールの外へ出たがる。というのが今の社会の仕組みなんじゃないかと思う。
自由ってなんだろう、同時に、自分らしさってどこまで追い求めていいんだろう。。。
なんでこんな小難しい哲学的なことを言ってるのかというと、最近はあまりにも自由が尊重されていて、何かを選ぶことに非常に疲れている自分がいるということに最近気づいたのだ。
自分らしさが叫ばれる今の社会。つまり選択肢が無数にある世界だと思う。
何かを選択し、個性や多様性を大切にする世の中も素敵だけど、最近はなんだか、皆躍起になっているというか、もはやなんでもありの世の中というか、レールに乗って常識の中で生きている人々の発信する意見が「古い」と一蹴されてしまうことも増えて、そんな人々が淘汰されてしまうんではないかと思うことが増えたのでこんなエッセイを書いてみた。
これも「そういう時代だから」という言葉で片付けられるのだろうか。
自分の心に従うことは、同時に、同じ社会で生きている他の誰かの気持ちをもしかしたら否定しているかもしれないという気持ちがあれば、本当の意味での多様性が認められていくんじゃないかと、私はそう思うのだ。